楊貴妃は玉環という名前で719年に現四川省に生まれました。
父親は楊玄琰という男で司戸参軍の職にありました。
玉環という名前は生まれながら玉環を持っていたのでその名がつけられたというものや、また、広西省の庶民の出身であり、生まれた時に室内に芳香が充満しあまりに美しかったので楊玄琰に売られたという説もあります
玉環は〝資質豊艶〟つまりぽっちゃりした美人で歌舞音曲に通じ、頭の回転が速かったと言われています。
735年玉環はその美貌が見初められ、数え17歳で寿王の妃となりました
寿王は玄宗皇帝の18番目の皇子でした。
母親は武恵妃という女性です
武恵妃は玄宗皇帝が712年に28歳で即位した時から玄宗の寵愛を独占していましたが、玉環が寿王の妃となった年に亡くなってしまいます
この時50歳だった玄宗は大変悲しみ、政務を見る気も失ってしまうほどだったと言われています。
臣下たちはなんとか玄宗をなぐさめようと、諸方から美女を集めますが誰一人として玄宗皇帝の目にかなう女性はいませんでした
そうして5年の月日が流れたある日、玄宗お気に入りの宦官、高力士が推挙したのがなんと寿王の妃となっていた玉環だったのです
玄宗皇帝は華清池と名付けられた浴殿に玉環を呼び寄せ、ひそかに玉環の入浴姿を覗き見します
玄宗は玉環の温泉の湯を弾く真っ白な肌、そして嫋やかな姿に一目で心奪われました
そしてすぐさま玉環を禁中の寺に召し上げ、息子の寿王には別の女性を妃としてあてがいました
以来、楊太真と名を改めた玉環は夜毎玄宗の寝所に侍ることになりました。
この時玉環は数えで22歳。
さらに5年後の745年玄宗は玉環を正式な妃として宮中に呼び寄せ皇后に次ぐ貴妃としました。
玄宗皇帝は60歳、楊貴妃は27歳。
〝楊貴妃〟となった玉環は玄宗の寵愛を一身に集め、兄弟姉妹をはじめ楊一族は出世し、玉環の従兄弟、楊国忠などは宰相まで登りつめました。
しかし楊国忠や楊一族の横暴が激しくなり755年安史の乱が起き、楊国忠や楊一族は皆殺しにされ、楊貴妃は縛り首になった。
楊貴妃37歳のことでした。
762年、玄宗は楊貴妃への恋情を胸に長安城内で死んだ。玄宗は78歳だった。権力は息子の粛宗に奪われており幽閉状態でした。
楊貴妃は本当に悪女あるいは傾国の美女だったのでしょうか
美人は3日で飽きる、といいますが単に美しいだけではつまらないし、人の好みは千差万別、世界最高の美女なんて決めることはできません。
問題は〝誰にとって〟世界最高の美女であるかどうか。
クレオパトラはシーザー好みの美女であり楊貴妃は玄宗皇帝好みの美女だっただけかもしれない。
玄宗皇帝の妃はもちろんひとりだけではない。
玄宗皇帝の後宮には何千人もの美しい女性がいたはず
後宮という魑魅魍魎の世界の中で玄宗皇帝の愛情を独り占めした楊貴妃はなかなかの策士だったのではないか?
楊貴妃はよく玄宗皇帝と喧嘩し、宮廷を何度も追い出されていますしかしその度に仲直りしてはさらに愛情も深まったらしい
いつの世も王者は孤独な生き物です。人はみな自分のいいなり、あらん限りの服従を誓い、真心を示そうと媚びへつらう。。
しかしその服従も真心も自分の持つ巨大な権力に対して捧げられたもの。自分個人は本当に愛されているのかどうか疑問に思う。。
年老いた玄宗皇帝も同じような気持ちではなかったか
そんな玄宗皇帝を楊貴妃は母性的な強さやさしさですっぽり包み込んだ。玄宗を安心させ、自信をつけさせ、時に甘えて、死をも辞さないというポーズを見せながら激しく嫉妬し喧嘩をした。
唐王朝の皇帝と誰が対等に喧嘩などできようか。
玄宗皇帝の後宮で16年もの間、玄宗の愛を掴み続けた楊貴妃。
彼女は流されているだけの女性ではなかった。
ライバルの梅妃を後宮から追い払ったり、自分の身内で周りを固めたりして着々と自分の地位を
揺るぎないものとしました
楊貴妃は悪巧みにもたけていたのだと思われます。またそうでなければ権力の座を狙う他の人間から命さえ奪われかねない。
後宮というのはそのように血を好む恐ろしい伏魔殿でもあったのだから。