22歳の名門貴族の娘、ベアトリーチェ・チェンチの処刑を見るためである。
だが、どうみてもら少女にしか見えないそのあどけなさとは裏腹に罪状は『父親殺し』。
では彼女はなぜ父親を殺してしまったのでしょうか
ベアトリーチェ・チェンチは名門貴族のフランチェスコ・チェンチとエルシリア・サンタクローチェとの間に1557年2月6日に生まれました。
父親のフランチェスコは悪役を絵に描いたような獰猛な男で暴力、強姦、殺人と非道の限りを尽くしながら、その富とコネクションの助けを借りて罪を逃れてきた男です。
フランチェスコは若いときから早熟な歪んだ官能の吐け口を求めるようになり、野獣さながらにあらゆる種類の情交を強要し、抵抗する者がいれば杖でたたきいうことを聞くまで地下室に閉じ込めて食べ物を与えませんでした。
フランチェスコの母親は息子に無関心で社交界で活躍し、舞踏会やレセプションでひけらかす衣装や宝石ばかりに関心が向けらていました
フランチェスコはわずか12歳で家督を継ぎ14歳で同じく14歳のエルシリアと結婚します
フランチェスコはエルシリアを休みなく妊娠させておくようになった。
エルシリアば16年間で哀れな彼女は7人の子供を産みました
1567年にはジャーコモ、72年にはクリストーフォロ、73年にはアントナーナ、76年にはロッコ、77年にベアトリーチェ。。
12番目の妊娠ではもうすっかり痩せこけてしまいついに虚脱状態となり度重なる出産が命取りになりました
1584年母親のエルシリアが死亡するとベアトリーチェと姉のアントナーナはサンタ・クローチェ僧院の寄宿学校に入った。
ベアトリーチェはこの美しいバラ園で囲まれた寄宿学校で資産家の娘たちと一緒に学問や礼儀作法を学び、友人たちと楽しいピクニックや大好きな先生たちに囲まれて幸せにくらしていました
ベアトリーチェはこの寄宿学校でそれから8年間明るく清らかな少女時代を送ることができました。
ところがその穏やかな日々は突然終わりを告げた。
父親フランチェスコは異常にケチな男でもらあった。ベアトリーチェと姉アントナーナの寄宿学校代を節約するため、寄宿学校から連れ戻された。
父親フランチェスコはルクレツィア・ペトローニという女性と再婚していました。
ルクレツィアは未亡人で35歳ほどの女性、度重なる妊娠で重量感があり、豊かな顔立ち、狭い肩はまるまるとして胸ははち切れんばかりだった。
ベアトリーチェは父親と継母ルクレツィアと共にナポリの城に住むことに。
ベアトリーチェは15歳になっていました。
ベアトリーチェは美しい娘で、黒髪、整った顔立ち、生き生きした黒い目、身体はほっそりしているが肉付きはよくて腰のくぼみな下はまるまるとした尻になっていた。
ベアトリーチェはなるべく父親と接触する機会を、最低限少なくするように努めていました
そんな時兄ロッコとクリストーフォロは別々の相手と喧嘩し2人とも殺された。
そんなころ姉のアントナーナがローマ教皇クレメンス8世に直訴して結婚相手を見つけてもらい城から出て行ってしまいます。
この時莫大な持参金を払わなければいけなかったのを根に持って次女のベアトリーチェは結婚させまいと山あいの辺鄙な城へと半ば監禁状態に置きました
そして夜になると継母ルクレツィアとベアトリーチェの見ている前で排尿したり排便を始める。さらに彼女たちを辱め、無理やり自分の尻を拭かせたりした。
さらに生殖器を含めて下半身を覆っている気持ちの悪い赤い吹出物を油薬を塗り込んだ麻の端切れでこすってやらなければならない
父親はだんだんと興奮がつのっていき、興奮が抑えられなくなるとベアトリーチェを力ずくで襲い処女を奪ったといわれている。
悪魔のようなフランチェスコの陵辱はそれから毎晩続いた。
継母のルクレツィアもフランチェスコの淫行に気づいていたが見て見ぬふりをした。
ベアトリーチェは実の父親に犯されたことを誰にも打ち明けることができなかった。
チェンチ家の執事であるオリンピオは背の高い美男で、堂々たる、それでいて均整のとれた体躯の持ち主、肌は浅黒く、黒髪でマントの下には大きなサーベルをつけている。
父親フランチェスコと同じ年、つまり45歳くらいなのに10歳は若く見える
ベアトリーチェとオリンピオが懇ろになったのは1597年の春頃だと言われています。
ベアトリーチェはオリンピオの短気な性格を利用しようと考え、フランチェスコを殺害するよう巧みに誘っていく。。
ベアトリーチェははにかみながら父親が暴力で犯したため、肉体的接触に嫌悪感を覚えるよいになったと訴える。
オリンピオは答えた。
『あなたの父上が?この私が剣で刺し貫くか、縛り首にしてみせよう』
1598年9月8日夜、ベアトリーチェは父親に阿片入りのワインを飲ませて眠らせます。
そしてオリンピオと計画に引き入れた元御者が斧でフランチェスコの頭を何度も殴り撲殺。
ベアトリーチェと義母ルクレツィアらと一緒に死体を庭から突き落とし、酒に酔ったフランチェスコがテラスから転落したかのように見せかけました。
父親フランチェスコの酒乱は世間に知れ渡っていたので誰も疑うことはないはずだった。
しかしフランチェスコの死体がテラスから落ちたにしては庭に血痕がないこと、検視の結果、斧による殴打が致命傷となりチェンチ家関係に逮捕状が出てしまいます。
厳しい取り調べと残酷なり拷問の結果、継母ルクレツィアは自白した。ベアトリーチェだけはかなり粘ったが髪の毛で身体を吊るされるという目にあわされとうとう罪を認めました。
時の教皇クレメンス8世により、チェンチ家一族斬首が決まる。
1599年9月11日、チェンチ家の人々はサンタンジェロ城に移送され、そこに処刑台が組まれた。
兄にジャコモは木槌で手足を4隅に打たれ四つ裂きの刑に処された。
恋人オリンピオは拷問で死んだが一言も真相を喋らなかった。
記録に伝えられるところによると、悲劇の姫、ベアトリーチェは死刑台の中央へしっかりとした足取りで進んでいったという。
その姿は青ざめながらも誇り高い美しさに輝いていたといわれています。
唯一若い弟だけは死刑を免れたが、財産を没収され(チェンチ家の領地を含む莫大な財産は教皇クレメンス8世のものとなった)、刑務所に戻される前、処刑台で家族の処刑を見せられた。
憐れみ深い婦人たちが数人、斬られた姫の首に白い花の冠をかぶせました。
ローマの人々にとって、ベアトリーチェは、傲慢な貴族社会へのレジスタンスの象徴となりました。
処刑されたチェンチ一族がローマでも屈指の名家であり、ローマ市民の同情を一身に集めたベアトリーチェが評判の絶世の美女だっただけに残者のシーンは悲壮感ひとしおで、ローマ市民の激しい暴動が起きるほどでした。
クレメンス8世の市民からの信頼は失墜し、部屋に引き篭もるようになってしまいます
そして、毎年、彼女が処刑される日の前夜、ベアトリーチェの幽霊が斬られた自分の首を持って橋に戻ってくるという伝説が生まれました。
一番上の肖像画は若き日のグイド・レーニが知り合いの枢機卿に手引きされ、処刑前日のベアトリーチェの牢を訪れて描いた作品だと伝えられている。
スタンダールはこの絵に対して、
〝その顔は優しく美しい。まなざしは柔らかくそして瞳は非常に大きい。つまり、さめざめと泣いていた瞬間をふいに他人に見つけられたかのようだ〟
(グイド・レーニラファエロ風の古典主義的な画風)