(ヴァルテス・ド・ラビニェ伯爵夫人1848〜1910)
この絵画の女性は一見普通の上流階級の女性に見えますが、実は彼女はフランスの高級娼婦です。
エミリー・ルイーズ、またはヴァルテス・ド・ラ・ビニェ伯爵夫人はフランスの半社交界の花、クルティザンヌでした。
1848年7月13日に暴力的でアルコール中毒の父親と売春も行なっていたノルマンディー出身の洗濯屋の娘として生まれました
エミリーは6人兄弟だったため、兄弟を養うためわすが10歳でお菓子屋さんで働き始めました。
しかし13歳の時エミリーに悲劇が。。
治安の悪い通りを歩いていたとき突然老人からレイプされてしまいます。。
クルティザンヌ(娼婦)になる女性は性被害にあってしまった女性が少なくないですね。
有名なコーラ・パール、美しきアンダルシア女と呼ばれた、ラ・ベル・オテロも同様の被害にあっています。
その後エミリーは売春を始めました。
しばらくするとエミリーはジャン=バティスト・コローのモデルをするようになりました。
この時点のエミリーは安い金額で体を売るロレッタ娼婦、またはグリゼットと呼ばれる低い娼婦でクルティザンヌとは言えませんでした。
エミリーはもっと富裕層の顧客を捕まえるためバル・マビーユに行きダンスを猛特訓しました。
ここには軍の将校たちが頻繁に訪れていました。
そこでエミリーはリチャード・フォッシーと恋に落ちますが2人の子供が産まれても結婚に至らずその後別れてしまいます。
20歳のエミリーは子供を母親に任せ、一生結婚しないことを誓い、お金と社会的地位を得るため名前をより高貴な意味に近い〝ヴァルテス〟と名前を改めた。
〝ヴァルテス〟と改名した彼女はエミール・ゾラやフローベール、ギー・ド・モーパッサンと高級レストランで食事するまでになりました。
彼女は完全にクルティザンヌとしての地位を確立することに成功しました。
エミリーは『オルフェ・オ・アンフェール』のエベ役で女優としても活躍しましたがあまり演技は上手くありませんでした。
1876年には自伝的な小説も出版しました。
さらにナポレオン3世の愛人になり伯爵夫人のタイトルをもらいました
ペリゴール公爵やポーランドの名家ルボミンスキー王子とも交際
恋人である王子はヴエミリーのためにパリの17区のマルゼルブ大通りの98番に大邸宅を建ててやりました後に破産します。
さらに恋人だったアンリ・ジェルベクスのモデルもつとめた。
エミリーは後の有名なクルティザンヌリアーヌ・ド・プージィの師となりクルティザンヌを引退しました。
エミリーはその後も宮殿ともいえる大邸宅に住み1910年7月29日に62歳で亡くなりました。