ー古き良き時代の残り香

宴の後、女性たちか寝室に引き上げていく。彼女たちの蝋燭の炎に照らされた顔、輝くダイアモンドのきらめき、それらが暗闇に消えて行く時。。





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(メッテルニヒ侯爵夫人パウリーネニコニコヴィンターハルター作

メッテルニヒ侯爵夫人パウリーネはパリとウィーンの社交界の花形として知られたオーストリアの外交官夫人。





その魅力と洗練ぶりは多くの人々の称賛の的だった。



メッテルニヒ家はラインラント地方に古くからある伯爵家だった。


当時のメッテルニヒ伯爵夫人は頭が良い女性で長男のクレメンスを最も影響力のあるサロンに入れ、マリア・テレジア時代の伝説的な宰相カウニッツの孫娘エレオノーレと結婚させることに成功した。




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エレオノーレは外見的魅力に乏しい女性だったが、有名な家柄の出身で社交界に抜群のコネクションを持っており、莫大な財産をメッテルニヒ家にもたらしましたお願い




(パウリーネの祖父、美男で有名だったクレメンス・メッテルニヒ)



クレメンス・メッテルニヒはなんといっても美貌だった。

ブロンドの巻き毛にきめ細かい肌、忘れな草のような青い目で若い頃は天使のような美青年だったニコニコ

さらに頭もよく教養もあったクレメンス・メッテルニヒはモテにモテましたニコニコドキドキドキドキ

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(晩年のメッテルニヒ)

ヨーロッパ大陸の最も美しく才気あふれる女性たちを愛人とし、とてつもない大金持ちであり(妻の持参金のおかげ)そしてたいそうな自信家だった口笛


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(祖父クレメンス・メッテルニヒの愛人で美女で有名だったフォン・ザーガン公爵夫人)


クレメンス・メッテルニヒは外交政策に長けており、皇帝の娘マリー・ルイーズをナポレオンに嫁がせることに成功しました。

クレメンス・メッテルニヒと妻エレオノーレ・カウニッツの間には5人の子供をもうけましたが唯一生き残ったのは娘レオンティーネ1人だけだったニコニコ


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このレオンティーネはモーリッツ・シャーンドル伯爵に一目惚れしてしまった照れ

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父親であるクレメンス・メッテルニヒは1年間娘がどんなにお願いしても首を縦に振らなかったがついに根負けしたショック


レオンティーネ・メッテルニヒとモーリッツ・シャーンドル伯爵は1835年に結婚、翌年1836年2月29日にパウリーネが生まれた。


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しかしパウリーネは可愛い子ではなかったショックショックあせる



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(少女時代のパウリーネニコニコ


口は大きすぎ、眉毛は濃すぎて男のようだったアセアセ



現代なら個性的な美しさと言われたかもしれないが当時は醜いとされ美人ではなかったもやもやショック




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(パウリーネ・メッテルニヒ=シャーンドル)


しかしパウリーネの一番の財産は栗色の波打つ髪だった。




また成長してからは
ヨーロッパで最も完璧な肩の線の持ち主

という評判を欲しいままにしましたニコニコ




ヴィンターハルターの絵画のとおり、肩をだし、裾をひきずる宮廷服を着てダイアデム(宝石をはめ込んだ王冠型髪飾り)を飾った頭をしゃきっと上げて、最上級の人から喝采を浴びるために生まれてきた女性となった。



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パウリーネは祖父であるクレメンス・メッテルニヒを一番尊敬し、愛していました。




13歳になった孫娘パウリーネに会話術を教えようとし、祖父の開く社交の夕べに出席することが許されるようになった。






やがてパウリーネは並ぶ物なき会話術を身につけることになるニコニコ





1856年20歳のパウリーネは7歳年上の27歳の叔父リヒャルトと結婚しメッテルニヒ侯爵夫人となった。

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パウリーネはナポレオン3世の宮廷に大使夫人としてパリに赴任することになりましたニコニコキラキラ

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パウリーネはすぐにパリが大好きになり、

『世界中のどこでも人間は無気力に暮らしているのに、パリだけは人間が生きている』


と日記に記した。




ナポレオン3世妃ウージェニーの朗読係だったド・カレット夫人はパウリーネのことを、


とても華奢で瘦せぎすといえるくらいで背は中背で襟の大きく開いたデコルテを身に纏い、額にはダイアモンド、誰の目にも明らかな気品、高貴、威厳を備えていた…大使夫人だったが、自分が大国を代表していることを誇りにしていた。




頭の挙げ方はまるで偉業を成し遂げる力をもった女傑を思わせた。』

と回想録で記した。




しかし23歳のパウリーネは『ベル・レド(美しい醜女)』というあだ名で呼ばれることになった。


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メリメはパウリーネのことを『猿のように醜いがよくよく知り合うと誰もがその魅力に取り憑かれてしまう』と書いた。



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(フランス皇后ヴージェニー)



さらにパウリーネはイギリス人デザイナー、ウォルトウージェニー皇后に紹介した。


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(ウォルトニコニコエリザベート皇后のドレスも手がけた)


ウォルトはまた、初めて生きた人間をモデルとして自身の作品を顧客に披露した人物であり、初めて販売した服に自身のブランドのラベルを縫い付けた人物でもある。




彼の殆どの顧客は、それまでの時代とは違って、彼の店を訪れて試着・仮縫いや商談をしました。そのため、彼の店は一種の社交場となりましたラブ

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メッテルニヒ夫妻は皇帝夫妻が毎年催すことになっていた四大宮廷舞踏会に出席するようになりましたニコニコ


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やがてパウリーネ抜きのパーティは考えられない、パウリーネの想像力は社交界に生気を吹き込んだ、と絶賛された。


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人々はパウリーネを〝妖精〟とか〝女魔法使い〟とか〝皇帝の街パリの女王〟と呼んだ。



パウリーネは話術の才能があり、並ぶものない会話術に対して、


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パウリーネの間のもたせ方は芸術品だった。会話を始めるとパウリーネ自身も変身するし、話し相手の私たちをも変身させた』
と絶賛しました
ニコ


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1867年オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフがパリを訪問した。

(オーストリア帝国皇帝、フランツ・ヨーゼフ)

もてなしを任されたのはメッテルニヒ夫妻ニコドキドキドキドキ


パウリーネはいつも陽気でわざとらしさのない態度によって老いも若きも皆自分のアイデアで魅了してしまう力があったラブ




皇帝フランツ・ヨーゼフも例外ではなかった。
皇帝は

パリは夢のようだ。こんな圧倒的な美しさだとは考えもしなかった
とまで言わしめた。  





パウリーネは「趣味といい想像力といい流行といい、その世界のトップレディーであることを証明した。」

とウィーンのジャーナリスト、フリードリヒ・ウールは書いた。




普仏戦争が起きた1871年、フランスが降伏するとナポレオン3世は捕虜になってしまい、パウリーネが愛したフランス第二帝政は崩壊。


パウリーネはオーストリアに戻らざるを得なかった。




パウリーネは美しく楽しかったパリの邸宅をたたんでウィーンに戻り、二度とパリを訪れることはなかった。

パウリーネはウィーンに帰ると舞台女優になった。チケットはすぐに売り切れ。
パウリーネは貴族出身の役者の中ではプロ顔負けに演技が上手い唯一の役者であった。




芝居の主役はいつもメッテルニヒ侯爵夫人である。侯爵夫人はクーブレ(時事小唄)をウィーン訛りで歌い、シャンソンを最高のフランス語で歌い、この万能の天才女性の輝かしい光を示す、ある雰囲気を漂わせた。クーブレを歌わせたらこの天才的な貴族夫人の右に出るものはいない。〟

と絶賛されました。

パウリーネは54歳で舞台を降りましたニコニコ




61歳になったパウリーネはどんどん耳が遠くなり苦しんだ。




この頃パウリーネは家を建てたがそれはウィーン風ではなく人生の最盛期を過ごしたパリの思い出を残したフランス風の家でした。


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第一世界大戦後パウリーネは身をもって貧困を学んだ。
実質的な収入がなくなってしまったのだ。




恥をしのんで少しずつパウリーネの家の貴重な調度品を売っていった。




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1920年パウリーネが一番好きだった女友達、かつてのフランス皇后ウージェニーが白内障の手術がもとで94歳で亡くなりました。





1921年9月21日パウリーネは突如脱力状態に陥った。

9月28日ウィーンでパウリーネは眠りながら死を迎えました。
85歳でした。


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晩年のパウリーネはオーストリア帝国とフランス帝国の栄枯盛衰を間近に見届けた女性としてこの消滅してしまった二帝国の象徴となった。