いつか自分のすべてを許してくれる人を見つけたい。
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(マリア・アンナ皇女 1738〜1789

1738年ハプスブルク家に一人の皇女が誕生した。

 

母はハプスブルク帝国の女帝マリア・テレジア。マリア・テレジアはハンガリーおよびボヘミア女王、ドイツ女帝にしてオーストリア大公。


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(母親の偉大なる女帝マリア・テレジア) 

産まれた皇女はマリア・アンナと名づけられたが、世継ぎの男児誕生を望む皇帝一家とオーストリア国民をひどく落胆させたショボーン

その2年後皇太子ヨーゼフが誕生したため、マリア・アンナ皇女は日陰へと追いやられることのなってしまった


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母である女帝マリア・テレジアは子供たちへの愛情がかたよりがちな傾向があった。

16人の子供たちのうち、美貌のエリザベート、快活なクリスティーナは母帝から偏愛されたが、実質的長女であり、皇太子より出来のいいマリア・アンナは生涯母からの愛情を得ることができなかった。


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(兄弟たちはみんなマリア・テレジアの愛を得ようと争った

マリア・アンナは弟で皇太子のヨーゼフを記憶力・集中力・勤勉さを持って遥かに凌駕したが、その未来の皇帝より優れた皇女の存在はオーストリア宮廷でひどく疎んじられた。 


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さらにマリア・アンナは美しくもなく、成長するにつれて背中の湾曲が目立つようになってしまった。



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マリア・アンナはくる病だった。

ビタミンD欠乏症によって引き起こされ、背中や四肢骨の湾曲、変形がおこる病のため、マリア・アンナはハプスブルク家の伝統芸、政略結婚に役に立たず、そのことも母親から愛情を受けられない原因の一つだった。


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さらに姉妹一の美貌の持ち主だった妹、エリザベートもまたルイ15世と結婚しフランス王妃になる直前、天然痘にかかり著しく容姿を損ねたため、母、マリア・テレジアは手のひらを消すように冷たくなり、エリザベート皇女もまた生涯独身を強いられた。

エリザベート皇女は美貌を失い、天然痘の後遺症である瘤だらけの顔を揶揄された。

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(際立った容姿は諸外国でも評判だったエリザベート皇女。艶やかな美女と評された彼女も病で容姿を損ない修道女に。)


マリア・テレジアの娘に対する冷たさは宮廷の誰の目にも明らかだった。

弟、レオポルトは

母はこの二人に会おうとせず、また会ったとしても公衆の面前で不愉快な顔を隠さなかった。とくにマリア・アンナにたいしてはいつもイライラを隠さなかった。

 

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しかし4女クリスティーネだけは溺愛した。そんな中マリア・アンナは教養を磨き知的な女性へと成長していった。不遇の皇女を愛したのは父親フランツだけった。 

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しかしそれも弟の皇太子フランツの嫁としてやってきたスペイン王女イザベラが来るまでだったショボーン

イザベラは大変美しい王女であり誰からも愛された。

母親だけだなく父親の愛情まで奪われたマリア・アンナはひどくコンプレックスを刺激され、イザベラ王女にひどく嫉妬し、冷たく接した。


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(スペインからやってきたイザベラ王女)

マリア・アンナの立場から考えれば仕方のないことだったのかもしれないが、このような行為により父親からの愛情も完全に失うことになった


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イザベラ王女が亡くなると、父親との関係も修復していったが1765年に最愛の父が死去。

完全に居場所を失ったマリア・アンナはエリザーべト修道院に入ることを決意した。


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(修道女として安らかな一生を終えたマリア・アンナ)

彼女がエリザーべト修道院に入ることを決意したのは、この修道院では誰もマリア・アンナのくる病の特徴である奇怪な姿に難色を示さず、好意的に迎えられたからだった。

この地でマリア・アンナは生涯の友人を得て生まれて初めて周囲に心を開いていったニコニコ



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辛い前半生を送ったマリア・アンナだったがようやく安らぎを得、また民衆から愛された。



そして彼女は末妹マリー・アントワネットがギロチンで処刑されることとなるフランス革命が勃発した1789年に彼女のために祈りを捧げる住民たちが城を取り囲む中、幸福のうちに亡くなった。


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