私たちの魂は完全に重なり合っています…運命が私たちの仲を引き裂いたとしても、心を引き離すことはできません。ー新エロイーズ ジュリーより
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断頭台の露と消えるという悲劇的な最期を遂げたマリー・アントワネット。
しかしフェルゼン伯爵という理想の恋人を持つことができた、という点では愛なき砂漠を生きた歴代王妃たちよりは恵まれていたのかもしれません。
1775年11月2日オーストリア・シェーンブルン宮殿でひとりのプリンセスが誕生しました。
このプリンセスこそ後にフランスの女王としてヴェルサイユに君臨する女性マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュでした。
(幼少期を過ごしたシェーンブルン宮殿)
有名すぎるマリー・アントワネットですが14歳でオーストリアからフランスへと輿入れ
マリーアントワネットを〝ヴェルサイユで最も愛らしい女性〟と呼ばれていました
マリー・アントワネットの魅力は顔の造作のひとつひとつではなく、むしろ全体的な優雅さだった
何より肌がとんでもなく綺麗でさらに身のこなしがだれより優雅でした
『頭のもたげ方にとても感じの良いところがありすべてがエレガントだった。
だからこそ生まれつき容姿に恵まれた美女たちと肩を並べてもひけをとらずときには優位にたつことさえあった。』
王太子妃となったマリー・アントワネット。夫で王太子ルイ・オーギュストは夫としての勤めを結婚7年たっても遂行することができず、子供は生まれませんでした
そんなマリー・アントワネットが暮らしたヴェルサイユ宮殿での生活についてサン=シモン公爵は次のような言葉を残しています。
「老いも若きも男も女も、暑い日も寒い日も、病もうが健やかだろうが着飾って踊ることが義務だった」
さらに〝博打で全財産を失ってもそれでも微笑みをたやさず周囲の空気を乱さないでいる〟こと
どんなにつらい心を抱えていても微笑み続ける、これが革命前の貴族たちの常識であり高貴な生まれを示すものでもありました
マリー・アントワネットが輿入れする前、フランス宮廷の女王的存在だったポンパドゥール侯爵夫人でさえこんな言葉を残しています。
(ポンパドゥール侯爵夫人)
「宮廷の人々は見栄っ張りで、えらそうで、嘘つきだわ。
今になってわかったのだけれども、王様も他の人たちと同じように泣くことがあるのよ。
わたしもよく泣いています。どんな気まぐれでこんなところに来てしまったのでしょう
昔アフリカにあったモノモタバ国の王様はいつでも笑えるように500人の道化師を連れていっていたんですって。
ルイ15世には500人の廷臣がお目覚めのときから寝るまで見張っているけれどちっとも楽しませて差し上げることはできないのよ。」
王権末期のヴェルサイユの空気は最悪でした。
さらにマリー・アントワネットの育ったオーストリア宮廷は比較的アットホームでしたから、マリー・アントワネットはフランス宮廷に適応できませんでした
そしてマリー・アントワネットはドレスや宝石を購入してオペラ座の仮面舞踏会に遊びに行ってはストレスを発散していました
1774年1月マリー・アントワネットはお忍びでいった仮面舞踏会でフェルゼン伯爵と出会います。
スヴェーデンの大貴族出身で、フェルゼン伯爵もマリー・アントワネットもともに18歳でした。
(フェルゼン伯爵。容姿端麗な伯爵はパリの社交界でも大人気でした)
フェルゼン伯爵は、長身で容姿端麗で品行方正。〝氷の表皮に包まれその奥で燃え盛る魂〟と評された魅力的な人物でした。
2人の間には既に激しい恋愛感情が芽生えていた。
しかしフェルゼン伯爵は王妃に対し控えめで慎重な態度を保っていました。
それもこれも愛する王妃を悪い噂で苦境に立たせたくない、という騎士道精神でした
フランス革命が勃発するとフェルゼン伯爵はヴァレンヌ逃亡計画を提案します。
マリー・アントワネットとフェルゼン伯爵が愛人関係だという人々もいましたが2人の愛はプラトニックだったといわれています
実際フェルゼン伯爵はマリー・アントワネットを愛しながらも、親密になりすぎないように気をつけていました
二人の仲が怪しまれ始めると、ヴェルサイユを離れアメリカ独立戦争志願したり、生涯を通じて真に愛しつづけたのです。
フランス革命期には身内(王妃の寵臣ポリニャック伯爵夫人から王弟まで)にも裏切りも出た中、フェルゼンだけが最後の最後まであきらめずに王妃の救出を画策していました。
さらにフェルゼン伯爵は生涯を通じて独身を貫きました。なので子供もいません。
フェルゼン伯爵には資産家で地位の高い娘との結婚話がたくさんきましたがすべて断りました。
(フェルゼンの妹、ソフィー)
その理由について妹のゾフィに手紙で書き送っています。
「私は決意しました。私が一緒になりたいと思い、私を本当に愛してくれている唯一の女性と一緒になれないのだから、もう誰とも結婚する気はないのです。」
(マリー・アントワネットの髪の毛)
もちろんその¨唯一の女性゛ とはフランス王妃マリー・アントワネットのことだった。
(処刑場所へと向かうマリー・アントワネット)
しかし一人の男の献身だけで革命を止めることはできずマリー・アントワネットは処刑されてしまします。
アントワネットとフェルゼンが交わした手紙には
「『…ああ、わたくしがもし、王妃でなかったならば。ただの貴族の出身だったならば…
さまざまな美しい追憶がわたくしのまぶたに浮かびます-
私にはもう時間がありません。ここで筆を置きます。。
さようなら。私の心はすっかりあなたのものです。」
この最後の行を読み終わった時、フェルセンの手はふるえた。
同封されていたマリー・アントワネットがフェルセン伯爵のために作られた指輪にはフェルセン家のの紋章とイタリア語でTutto a te mi guida(いっさいが私を御身がもとに導く)刻まれていた。
その短い言葉に王妃の彼に対する最後の愛の告白がほとばしる赤い血のように彩られていた。
マリー・アントワネットが処刑された後、フェルゼン伯爵は故郷スヴェーデンに帰国し元帥になりますが、マリー・アントワネットを殺した民衆を憎み、愛想のない人間に変わってしまいました
(晩年のフェルゼン伯爵。民衆に対して不信の念を抱くようになってしまいました)
そして1810年の6月20日忘れようとしても絶対忘れられないこの日のことをフェルゼン伯爵は゛運命の日¨ と呼んでいました。
(フェルゼンの惨殺 1810年)
国王夫妻の逃亡が失敗した、あの日からちょうど19年目のその日彼の人生は突如としておわるのです。
スウェーデン王太子を毒殺したのはフェルゼン伯爵だとのデマを信じ込んだ民衆によってフェルゼン伯爵は惨殺されました。
全裸で投げ捨てられる、という無惨な最期でした。
〝自分はあの日死んでおくべきだった゛と呪いの言葉を日記に書き付けた運命の日、すなわちヴァレンヌ逃亡計画失敗と同じ6月20日であった。
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