なぜ私が病気になるの?なぜこんな目に合わないといけないの?一体私が何をしたの?
理不尽さに突き当たった時、道は2つ。
一つは強くなること。
踏みにじられたくなければ人の百倍努力し、人の千倍ひたすら耐えて強くなるしかない。
そしてもう一つは理不尽さを受け入れて順応すること。
どちらがいいのかわかりません。
しかしマリー・ルイーズの場合、後者を選びました。そして一応は幸せな人生を送ることができました。ただし尊敬は周囲からも息子からもされることはありませんでした。
マリー・ルイーズの人生はとても興味深いです、誰だって自分の身は守りたいからでしょうから。たとえ他人の幸せを犠牲にしてでも。それだけ人生は過酷だからでしょうか
マリー・ルイーズは、1791年神聖ローマ帝国・皇帝フランツ2世の長女として誕生しました。
マリー・アントワネットを大叔母に持つハプスブルグ家のプリンセスです
マリー・ルイーズの誕生の2年前にフランス革命が起こり、叔母マリー・アントワネットはギロチンで殺されました。
マリー・ルイーズはナポレオンが大嫌いで小さい時に人形遊びをする時は〝ナポレオン″ と名付けた人形をコテンパンにいじめながら遊んでいました。
フランス革命で最後に権力を握ったのはナポレオン。
そのナポレオンにより、マリー・ルイーズは住んでいたシェーンブルン宮殿を2度に渡って追い出されるという屈辱を味わいます
13歳の時にはマリー・ルイーズは持てるものだけ持って馬車に乗り込み、雪の中首都ウィーンを脱出せねばなりませんでした
マリー・ルイーズはナポレオンを憎しの気持ちを強めて少女時代を過ごします
ここでナポレオンが重大発表をする
子供ができない皇后ジョセフィーヌと離婚し、皇家もしくは王家の血を引く姫と再婚するつもりである、と宣言した。
その知らせを聞いたマリー・ルイーズは、
『次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている』と親しい友人宛に書いていた。
本当に嫌だったんだね
ナポレオンのお后候補には、ロシア皇女、バイエルンの公女、ザクセンの王女などがあがったが、オーストリアの天才外交官メッテルニヒによりなんとマリー・ルイーズ自身がナポレオンのお后に決定してしまった
当時マリー・ルイーズは18歳の若さ
一方ナポレオンは40歳を過ぎていました
しかもマリー・ルイーズは2歳年上のモデナ公国フランツに恋していたところだった
その年の2月、外交官メッテルニヒがマリー・ルイーズを説得。
皇女として生まれたからには政略結婚は避けられない。特にハプスブルグ家が栄えたのは政略結婚のおかげだったから尚更だった。
マリー・ルイーズは国家の利益のためナポレオンとの結婚を承諾した
一方フランスではハプスブルグ家の皇女マリー・ルイーズを迎えるため宮殿を改装し、壁紙だけで40万フランという豪華な室内装飾が施され、婚礼衣装、贈り物の数々、たくさんの靴、絹のストッキングに巨額の衣装代。。
1810年マリー・ルイーズはルーヴル宮殿の礼拝堂でナポレオンと結婚し、フランス皇后となった。
そして意外にもナポレオンは優しい夫であった
マリー・ルイーズはまんざら自分の運命も悪くないんじゃないと感じ始めた
ナポレオンはヨーロッパの支配者。自分はその妻なのだ。
マリー・ルイーズは自分の幸せのためナポレオンを愛することにした。
しかしマリー・ルイーズはフランス宮廷に馴染めませんでした
育ったオーストリア宮廷はどちらかというとアットホームだったが、フランスはヨーロッパ一洗練された国だった。
おしゃれのセンスのないマリー・ルイーズの評判は侍女たちから出入りの商人、市民に至るまで悪かったのです
結婚の翌年1811年、マリー・ルイーズは待望の世継ぎ、ナポレオン2世(ローマ王)を出産
しかし周囲が驚くほどマリー・ルイーズには母性愛が欠けていた。
さらに翌年1812年ナポレオンはロシア遠征を行うが、これが大失敗。
これを期に、マリー・ルイーズの父王フランツはヨーロッパ同盟軍に参加し、ナポレオンは敗戦に次ぐ敗戦。
ヨーロッパの支配者だったナポレオンは、ついにフランス皇帝の座を降り、年金およびエルバ島への流刑が決まった。
マリー・ルイーズは幼い息子を連れてパリから脱出
ランブイエ城で父王であるフランツ皇帝に面会し、自分は夫、ナポレオンがいるエルバ島に息子と共にいくことを申し出た。
しかし父、フランツ皇帝に拒否されてしまう
そしてマリー・ルイーズは生まれ育ったオーストリアのシェーンブルン宮殿に戻った。
父フランツ皇帝は娘のために豊かで贅沢な暮らしを用意した。
晩餐会や舞踏会が開かれ、だんだんとナポレオンからのエルバ島への渡航催促の手紙が鬱陶しくなってくる。。
ヨーロッパ同盟軍の中心にいる父と島流し決定の夫。どちらについていけば有利なのかは明白だ。
しかし人間には感情があり、信念があったりする。損得感情だけで行動するのは意外と難しかったりする。しかしマリー・ルイーズには適応力がありそれができた。
この急激な心変わりにナポレオンはショックを受け自殺未遂をする。
さらにナポレオン嫌いの人でさえ、マリー・ルイーズの心変わりの早さに眉を顰めた。
3歳になった息子は父親、ナポレオンに会いたがったが、マリー・ルイーズは当然無視した。
見かねた大叔母マリー・カロリーネは、
『結婚は、たとえどんなものであったとしても命をかけなければならないものです。私があなただったら何としてでも夫に会いにいきますよ』
と忠告した。
マリー・ルイーズは保養地エクス=レ=バンにある温泉でゆっくりした後、ナポレオンにエルバ島へいくので、部屋を用意しておいて欲しい、と頼んだ。
しかしマリー・ルイーズはエクス=レ=バンへ行く時の護衛についていたナイペルク伯爵に夫が大変な時期にあっさりハンサムなナイペルク伯に恋をしてしまう
そして散歩の途中に嵐にあい、避難したソレイユ・ドールと呼ばれる簡素な建物の中でナイペルク伯とあっさり男女の関係を持ってしまう。
ナポレオンはマリー・ルイーズの要望通り、部屋を改装して待っていた。
しかしマリー・ルイーズは一切返事を書かなかった
マリー・ルイーズの頭の中にはナイペルク伯との甘い生活しか頭になかったからでした
そしてマリー・ルイーズのパルマ統治が決定し、パルマ女公爵になり、ナイペルク伯と共にパルマへ向かった。
ナポレオンとの間に生まれたまだかわいい盛りの息子のことは全く考えなかった
その頃、マリー・ルイーズの妹でブラジル皇帝ペドロ1世に嫁いだマリア・レオポルディーネが夫からのDVに耐えかねて助けを求めてきた。
このままだと度重なる暴力により死んでしまうから助けて欲しい、との悲痛な手紙だったが、マリー・ルイーズは妹を見殺しにする
妹、マリー・レオポルディーネは妊娠中に夫にお腹を蹴られた結果、死産し、29歳で死去した。
しばらくしてマリー・ルイーズはナイペルク伯の子供を秘密裏に出産した。
しかしマリー・ルイーズとナポレオンの間に生まれた息子はナポレオン残党の誘拐を恐れたメッテルニヒにより監禁状態にあり、孤独な少年時代を過ごした。
ライヒシュタット公と呼ばれるようになった息子は、父、ナポレオンを大変尊敬し、強く憧れていた。フランス語を昼夜熱心に学び、少しでも父親ナポレオンに近づこうと耐寒訓練など猛烈な軍事訓練の努力も怠らなかった
そんな日々の中でライヒシュタット公は母マリー・ルイーズが父・ナポレオンの存命中にナポレオンを裏切りナイペルク伯との子供、アルベルティーヌとギョームを出産していたことを知ってしまった
母、マリー・ルイーズの軽薄さを知ったライヒシュタット公は、
『私の母は私の父にふさわしくない女性だった』
と書き残し、21歳の若さで結核により死去した
(もう一人のナイペルク伯との子供、ウィリアム)
しかしなんと言われようとマリー・ルイーズは幸せだった。自分の幸福と安全の確保だけを求めて平穏な生涯を送ったのだ
(マリー・ルイーズの3番目の夫、ルネ・ド・ボンベル)
ナイペルク伯の死後、マリー・ルイーズはルネ・ド・ボンベルと1834年に結婚した。
夫は穏やかな人物で幸福な結婚生活だった。
(晩年のマリー・ルイーズ。パルマ女公爵となっていました)
そしてマリー・ルイーズは自分を大切にし続け、薄幸の息子やナポレオンをかえりみることなく、幸せを掴んで1847年に亡くなった。
ハプスブルグ家の皇女であり、フランス皇后だった人とは思えない順応っぷり
(マリー・ルイーズの棺)