そして優雅は、美よりもさらに美しく… ーラ・フォンティーヌ
(ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール1644~1710)
〝朕は国家なり″ の言葉を残した世界で
最も偉大な王、ルイ14世。
ルイ14世は76歳まで死去するまでその生涯に多くの女性を愛しました。
1644年8月6日に地方貴族の娘として生まれたルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールは16歳になるとその時代の貴族の娘がそうしたように宮廷に出仕しました。
ルイーズが出仕したのはオルレアン公ガストンの宮廷でした。
ルイーズはイギリス王女にしてオルレアン公爵夫人アンリエットの侍女として働いていた時、
22歳の若き国王ルイ14世に見初められることになります。
当時の王族は皆政略結婚。ルイ14世も22歳で同じ歳のスペイン王女マリー・テレーズと結婚していました。
王妃となったマリー・テレーズはおせじにも美人とはいえず、その上かなり太っていて、びっくりするほど小柄。
フランス語がろくに話せず、頭の回転もはやくない王妃はそうそうにルイ14世から飽きられてしまいます
ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールは、片足が不自由で(片方の足が短く、長さを調整するため特注の靴を履いていた)少しひきずって歩いていたが、絹糸のようなブロンドの髪の毛と非常に珍しい美しい肌、淡いブルーの瞳がさわやかな野に咲くスミレのような純情可憐な女性でした
プリミ・ヴィスコンチによると
「彼女に見つめられるだけで、その甘美さに魂を奪われてしまうような目をしていた」
とルイーズを絶賛
さらにケーリュス夫人はルイーズの声の美しさまで褒め称えています。
性格もやさしく、真面目で慎み深い性質のルイーズの虜になった国王ルイ14世は、ルイーズをルイ14世にとって初めての〝公式寵姫″ としました。
ことあるごとに高価な宝石を与え、ルイーズが国王の最初の子供を産むと瀟洒なブリオン館まで与えられました
ルイーズが〝公式寵姫″になったという噂はあっという間に宮廷中に広まりました。フランス宮廷で王のお気に入りとなれば宮廷中がルイーズをちやほやし始めます
その中には財務長官ニコラ・フーケがいました。フーケは自身の城、ヴォー・ル・ヴィコンド城でルイ14世を招いて壮麗な大宴会を開きます。
しかし王家をも凌ぐ城を持っていることに腹を立てたルイ14世はフーケを逮捕し追放
ルイ14世がフーケの建てたヴォー・ル・ヴィコンド城を凌ぎたい一心で建てたのがヴェルサイユ宮殿です
ルイ14世はとても優しい恋人でしたのでこの頃がルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールの人生の絶頂でした
ルイーズの〝公式寵姫″の座を虎視眈々と狙っていたのが、モンテスパン侯爵夫人です。
2人はとても対照的な魅力の持ち主でした。
モンテスパン侯爵夫人は華やかで陽気で堂々とした肉感的な体つきで燃え立つような赤みのさした金髪デあらゆる国の大使たちから賞賛の的になるほどの派手な美女でした。
また非常な野心家で意思が強く国王を愛する、というより征服しようと努力を重ねていました。
国王のいとこは、
『モンテスパン侯爵夫人はエスプリのあるお方です。
そして人を惹きつける会話をなさる女性です。
ラ・ヴァリエール嬢にはそれが欠けています。
国王陛下を楽しませるためにはモンテスパン侯爵夫人のような人が必要になるものなのです。』
ルイーズは心からルイ14世を愛している純真な女性だった。
だからこそ国王の心をとらえたのだが、フランス宮廷という陰謀渦巻く場所ではルイーズのような無欲すぎる人は逆に危険な所でもあった
ルイ14世ははためにもわかるほど心変わりしていった。
華やかなモンテスパン侯爵夫人に次第に惹かれていくルイ14世。
この時ルイ14世は29歳。モンテスパン侯爵夫人は27歳。ルイーズはモンテスパン侯爵夫人より4歳年下の23歳だった。
そしてついに1669年モンテスパン侯爵夫人は国王の子供を出産。
モンテスパン侯爵夫人はますます傲慢になり、ルイーズをイジメにかかる。
自分の出身も美貌も肉体もいかにルイーズより優れているか、顔をあわせるたび高らかに言う日が続く。。
約6年間の月日が流れた。
ルイーズはかつての最愛の人からのつれない仕打ち、宮廷中の冷ややかな視線に耐えかねて、ますます控えめになり部屋に閉じこもるようになった。
モンテスパン侯爵夫人は公然とルイーズを馬鹿にしただけでなく、ルイ14世にも同じ態度をとることを強要した。
2人の振る舞いはもはや公然とした侮辱に近づいていました。
このようなイジメに耐えかねたルイーズは最も戒律の厳しく、そこに入った者は永遠に俗世間に戻ってこれないことで知られるカルメル会修道院の門を叩きました。
ルイーズはまだ30歳の若さ。
しかし国王の元〝公式寵姫″を修道院へ追いやるとは
と外聞を気にするモンテスパン侯爵夫人はルイーズに修道女になることを思い留まらせようと侍女スカロン夫人をルイーズの元に送った。
スカロン夫人はルイーズにカルメル会修道院で予想される苦痛に十分に塾考したか尋ねた。
ルイーズは片足が不自由で特注の靴を使用していたが、カルメル会修道院では使えない。
カルメル会は特に厳しい修道院で長い断食期間、過酷な労働、酷暑と厳寒に耐えること、修道女は会話することを禁じられ、夜は硬いベッドで寝なければならなかった
しかしルイーズは毅然として答えた。
『その時は私はここで彼らが私を苦しめたことを思い出すでしょう。そうすれば苦痛の全てが軽く思えるでしょうから。』
宮廷を去る日、ルイーズは王妃マリー・テレーズの足元に身を投げ出し許しを請いだ。
王の寵姫が修道女としての永遠の誓いを立てるこのイベントは修道院の礼拝堂で行われ、末席にいたるまで人で埋まりました。
王妃から直々に黒いヴェールを授かったルイーズはこれまでにないほど美しく穏やかな様子だったたようです。
ルイーズは正式なカルメル会修道女の僧衣に身を包み、名前をスール・ルイーズ・ド・ラ・ミゼリコルドという名に改め、自ら表舞台から降りた。
特注の靴は使えないため、片足を引きずって歩き、ひたすら神に祈り、沈黙の誓いを守り、かつては絹のドレスを身に纏っていたルイーズの肌を覆うのは肌を傷つけるほど粗悪な布。
王妃はかつて自分の夫の愛を奪い、あれほど憎み嫉妬した女であるにも関わらず、安らぎと魂の慰めに修道女となったルイーズのもとに何度もやってきました。
奇妙なことに晩年ルイ14世の寵愛を失ったかつての恋敵、モンテスパン侯爵夫人が修道院にいるルイーズのもとにやってきて、どうしたら敬虔な暮らしができるのか助言を求めてきた。ルイーズはモンテスパン侯爵夫人を許しており、優しく助言した。
以後36年に渡り修道院を一歩も出ることなく1710年6月7日65歳で死んだ。
ルイーズとモンテスパン侯爵夫人の女の闘いは外国の宮廷の人々までもが注目していた。
ルイーズが野に咲く可憐なスミレの花だとしたら、モンテスパン侯爵夫人は咲き誇る真っ赤な大輪のバラだった。
ルイーズの見返りを求めない愛は気高いかもしれないが、国王に一途な恋心を捧げるというのがそもそもの間違いだったのかもしれない。なぜなら国王という恋人ほどその心があてにならない恋人はいないのだから。