(プーシキンの妻 ナターリア・ゴンチャロワ)
とてつもない矛盾を孕んだ国、ロシア。
この広大な国は温厚な優しさと執念深い残忍さ、中世さながらの迷信めいた信仰心と豪華で放埓な華やかさが同時に存在している摩訶不思議な国。
ロシア貴族は光り輝く巨大なダイヤモンドをつけながら、ロシア貴族たちの半数が文字を満足に書けず、三分の一の人々は読むのでさえ困難だった。
さらにフランスコンプレックスのあるロシア貴族たちは、驚くべきことにロシア語よりもフランス語を得意とした。
ロシア文学にはじめて作品の中に口語を取り入れ、ロシア文学の発展に多大なる影響を与えた、天才詩人アレクサンドル・プーシキン
1799年ロシアの由緒ある貴族の家に生まれたプーシキン。
破滅型の天才にありがちな変わった所のある彼は、情熱的で決闘好きでプレイボーイでした
時のロシア皇帝はニコライ1世。
ニコライ1世は政治家としては冷徹な専制主義者であり、あらゆる変革の試みに対し、軍人らしい保守性と厳格さで徹底して認めようとしなかった。
プーシキンの作品が次第に政治色を帯びてくると、プーシキンの存在は危険視され、政府の監視のもと、窮屈な生活を余儀なくされます
さらにニコライ1世の秘密警察ベンケンドルフ長官の監視下に置かれてしまいます
恋多き天才詩人プーシキンは29歳の時、宮中舞踏会に現れた、まだ初々しい16歳の美少女ナターリア・ゴンチャロワに一目惚れします
ナターリアはその稀有な人目をひく美貌でモスクワ中の男達から恋い焦がれられていました
(ナターリアの母)
ナターリアの母親もまた並外れた美人で厳格な人物でした。
しかし夫はは落馬事故の影響で精神疾患となり隔離されたため29歳の若さでナターリアの母親は一家を切り盛りしなければなりませんでした。
(ナターリアの父親)
ナターリアの母親は経済的にはかなり苦しんだためか宗教に救いを求めるようになりました。
モスクワ一の美女として有名になったナターリアに求婚したプーシキンですが、ナターリアの母親は結婚の承諾をたいそう渋り、出会いから2年たったナターリア18歳の時二人は結婚しました。
プーシキンとナターリアの間には4人の子供が生まれ、幸福な結婚生活を一見送っているように見えました。
しかし天才とは幸福な結婚生活とは相容れないものなのか、1835年ナターリアはフランスから移住してきたフランス人青年将校ジョルジュ・ダンテスに言い寄られます。
この噂は広まり社交界でスキャンダルを起こしてしまいます。。
というのも、ナターリアとジョルジュ・ダンテスは同じ1812年生まれ、23歳の美男美女同士。
人目をひかないわけがありません。
13歳年上の夫と美青年ダンテスの間で道ならぬ恋に揺れるナターリア
スキャンダルを抑えるべく、ジョルジュ・ダンテスはナターリアの姉エカテリーナと結婚します
エカテリーナは美しさでは妹ナターリアに太刀打ちできませんでしたがダンテスとの間に4人の子を授かりました
その後もナターリアへの愛は変わらず、この奇妙な関係に業を煮やしたプーシキンは、ジョルジュ・ダンテスに決闘を申し込みます。
1837年、ペテルブルク郊外で決闘が行われ、プーシキンは右腹部に致命傷を受けて倒れ、2日間苦しみ抜いた挙句に死去。
決闘は禁じられていたため、ジョルジュ・ダンテスは逮捕されるもニコライ1世により特赦され、母国フランスへ妻エカテリーナと共に帰り、第二帝政期には元老院議員にまで出世
プーシキンの死は謎に包まれ、ニコライ1世による秘密警察の陰謀ではないかと囁かれました。
当の絶世の美女ナターリアは夫プーシキンの死後、ニコライ1世と親しくなり、皇帝の新たな愛妾になった、と噂されました。
しかしナターリアは結局兄弟と同じ連隊に属する士官ピョートル・ランスコイと出会い、1844年、皇帝に祝福され結婚。
夫ランスコイはニコライ1世からも目をかけられ、順調に出世し、ナターリアはランスコイの子供を2人産んで、平凡で落ち着いた幸せな結婚生活を送りました
現在、決闘のあった場所には記念碑が立っています
またプーシキンは決闘によって死ぬ以前、強運の持ち主として知られ、数多くの決闘で、自分は一切撃たず、相手に撃たせ、いずれも弾が外れ、当然の如く笑って済ませていたという逸話がいくつかある。