メアリー・チューダーは1496年3月18日、ヘンリー8世の妹、イングランドのプリンセスとして生まれました
この頃のプリンセスは政略結婚が当たり前
もちろんメアリーもまた年頃になれば国家のため他国に嫁がねばなりません
1514年フランス王家からメアリーに縁談が
相手はなんとフランス国王、ルイ12世でした。
このときすでにチャールズ・ブランドンと恋愛中でした
メアリーは兄、ヘンリー8世に、
一度は政略結婚を引き受けるが、夫の死後はどうか好きな人と結婚させてくれるよう約束してもらいます
翌、1515年、メアリーはフランス国王ルイ12世と結婚
この時ルイ12世は52歳で3度目の結婚でした。
老王はイギリスからやってきた18歳のメアリーを見るやいなや、馬に乗ったままキスしたといわれています
今のヴォージュ広場にあった宮殿では、ルイ12世が老骨に鞭打って王家の血を絶やさぬように子作りに努めていました。
これがルイ12世の体力を奪い、とうてい政務ができる状態でないのは明らかでした。
メアリーは夫ルイ12世が死ねば、愛するチャールズ・ブラントンと結婚できるので、早く死んでほしいメアリーが狩猟や宴を連日催して、年相応のおとなしい生活をしていた夫から体力を奪ったと言われています。。
この間にメアリーはルイ12世の後継、フランソワ一世と肉体関係があったとも。。
当時の宮廷はまだまだ危険で風紀が乱れていたのです
(フランソワ一世)
メアリーの作戦は成功
結婚からわずか3ヶ月、1515年1月1日、吹雪が吹きつける寒い夜についにルイ12世は崩御。
フランソワ一世は、イギリスとの政略的理由からか、メアリーを愛していたかはわかりませんが、
メアリーにプロポーズし、メアリーはそれを断ります。
メアリーはこれで愛するチャールズと結婚できると思いきや、ヘンリー8世は最初から約束を守る気などさらさらなく、次の結婚を考えていました
しかし優しくて恋愛に関しては器のでかい国王フランソワ一世がヘンリー8世とほぼ同年齢でもありライバルだったので、フランスで恋する2人を密かに結婚させてあげます
見返りにさらに2人の結婚を実現させた見返りとして、メアリーはイングランドに持ち帰る予定だった花嫁持参金の返還を辞退しました。
しかしヘンリー8世は怒り狂い、2人はイングランドに帰ることを禁じられてしまいました。。
それでもメアリーは幸せの絶頂にいました
1515年5月チャールズ・ブランドンとメアリー王女の正式な婚礼が国王夫妻臨席のもと、グリニッジのプラセンティア宮殿で執り行われました
メアリーはサフォーク公爵夫人となり幸せに暮らしました
翌年には子供も誕生子供は4人生まれました
そのうちの一人の孫娘ジェーン・グレイは短期間ながらイングランド女王になりました。
メアリーが熱愛したこのチャールズ・ブラントンという男性は、一介の騎士の息子に生まれながら驚異的な早さで出世したイングランドの公爵です
しかもフランソワ一世の母ルイーズ・ド・サヴォアが一目惚れするほどいい男だったみたいです
しかし、チャールズ・ブランドンは国王の義弟となったものの、宮廷儀礼においては、宮中の儀式では常に妻が上位で優先権を持っていました。
ブランドンがメアリー王女と夫婦として対等に扱われることは一度もありませんでした
メアリー王女は次第に病気がちになっていきました
メアリーは1533年6月、チャールズ・ブランドンがアン・ブーリンの王妃戴冠式の責任者として多忙を極める中で死去した。
この夫婦ですが晩年は冷め切っていたのではないか、という説があります
なんとチャールズ・ブラントンは1533年9月、メアリーと死別してわずか3ヶ月後、ブランドンは14歳の裕福な女子相続人キャサリン・ウィロビーと4度目の結婚をしたからです
メアリーの死後、さらに裕福になったチャールズ・ブラントン。。
1494年3月に母が死ぬと、チャールズ・ブランドンは孤児となるつらい幼少期を過ごしました
この間にヘンリー7世の宮廷で重要な役職に就いていた叔父のトマスが、チャールズを宮廷に呼び、1509年にヘンリー8世が王位に就くと、ブランドンは王の寵愛を一身に受ける存在となった。
(チャールズ・ブラントン)
チューダー朝時代の出世頭たちに典型的な、破格の地位上昇がブランドンにも訪れ、ブランドンはわずか5年で盾持ちからイングランドで最も高位のサフォーク公爵にまで登りつめることになり、王の妹であるプリンセスと結婚までした幸運の女神に愛された男性
ブランドンは穏やかな晩年を送り、1545年にのギルフォード城で亡くなりました。
政略結婚のせいで不幸な結婚生活を送るプリンセスもたくさんいた時代の中でメアリー・チューダーは初恋の人と結婚し、幸運な人生を歩みました