裏社交界の大スターであり、ダイヤモンドで自分を飾りたてることに全エネルギーを費やし、多くの男性を籠絡し、エミール・ゾラの傑作、『ナナ』のモデルになったブランシュ・ダンティニー。
高級娼婦となり、上流階級の男たちを虜にして次々に破滅させてゆくが、突如失踪して半ば伝説の存在となる。
普仏戦争の直前に、若くして天然痘にかかり最後は醜い姿と化し、ほとんどの人々に知られぬままパリで亡くなる、というもの
ナナのモデルとなったブランシュ・ダンティニーは1840年5月9日フランス、ベリー地方の田舎、大工をしている父親のもとに生まれました。
本名はマリー・エルネスティーヌ・アンティニーでしたが、人並みはずれて色白だったため〝ブランシュ(フランス語で白を意味する)と呼ばれました
父親ジャン・アンティニーは女性関係にだらしなく、ブランシュが7歳の時に地元の女性とパリへ駆け落ちしてしまいました
母親は夫を追ってパリへ行きましたが、夫を取り戻すことはできませんでした
ブランシュには妹と弟がいましたがはやくに亡くなったため母親はブランシュを溺愛しました
生活のため母親はガリフェ侯爵家で針仕事の仕事につきました。
ブランシュの母親はガリフェ侯爵と特別な関係にあったのかどうかわかりませんがブランシュはガリフェ侯爵の援助で上流階級の子女が行くワゾー修道院に入り、高い教育を受けれることになりました。
しかしブランシュが14歳の時ガリフェ侯爵が死亡したため学費が払えなくなり修道院から出ざるをえなくなってしまいました
母親はブランシュに服地店の売り子になることをすすめ、ブランシュは売り子として働くことになりました。
14歳になっていたブランシュは既に男の目を引く魅力な少女になっていました
しかし14歳の時ブランシュはワラキア出身の男に騙されブカレストに連れていかれました
なんとかすぐに男から逃げだしたブランシュ。
この事件からブランシュは自らの魅力に気がつき、多くの男性を籠絡するようになります。
その中にはアルメニアの大司教もいました。
ワラキアの王子に見初められてワラキアの社交界デビューまでしてします
フランスが恋しくなったブランシュは
1856年、わずか16歳になるかならないかのときパリに舞い戻ってきました。
(ブランシュがモデルの絵画)
パリに戻ったブランシュは女優になって有名になってこそクルティザンヌとしての価値も上がると考え、サンマルタン劇場でデビュー
ブランシュの演技は大したことなかったが、その肢体は多くの観客を魅了しました
そんな頃ブランシュにさらなる転機が訪れた。
ロシア大公と出会い、一緒にサンクトペテルブルクに来るように誘われたからでした
しかしブランシュはパリに未練があり、パリの上流階級の人々が集まる〝カフェ・アングレ〟での楽しく洗練された夜食と別れたくなかったのでロシア行きを躊躇いました
1863年ロシア大公は、ブランシュを今度はドイツのヴィースガーデンへと誘い、このファッショナブルな避暑地でブランシュは派手にギャンブルに興じ大宴会を繰り広げ社交界のスターにのし上がりました
気分をよくしたブランシュは大公と一緒にサンクトペテルブルクにいく決意をし、大公の保護のもと大歓迎を受け、第1級の貴族並みの扱いを受けました
しかしブランシュは一人の男性で満足できる人間ではなかった
飽くなき欲望のため、大公の目を盗み秘密警察のメゼンテフ、総督など多くの男性と関係した。
ブランシュはロシアに四年いることになったが、次第にその傲慢の度合いが激しくなっできます
ある日のブランシュは、芝居見物用のドレスを買いに王室づきの服飾店に行った。
しかしブランシュが気に入ったドレスは既にロシア皇妃が注文していたドレスだったので、お店側はブランシュの要求を退けますが、ブランシュは札束を投げつけ、強引にドレスを持って店を出てしまいます
そしてその夜、そのドレスを着て王妃のボックス席に座りました
この行為がロシア皇室をついに怒らせブランシュは国外退去を命じられ、再びパリへと戻ってくることになったのです。
パリに戻ったブランシュは再び女優としてクルティザンヌとして生活し始めます。
ブランシュには演技力があったわけではないので、雑誌の編集長アンリ・ド・ペーヌを籠絡し、自分の演技力についてよく書いた記事を出版してもらい、一週間後にはパレ・ロワイヤル劇場で再デビューしました
もちろんブランシュのパトロンはペーヌだけではない
経済界の大物で銀行家のラファエル・ビスコフシャイムを恋人とし、新聞社に圧力をかけてもらい、コスティショネル誌、フィガロ誌、ゴロワ誌からの支持を受けることに成功。
ブランシュを批判したのはバルビー・ドールヴィルという批評家だけでした。
1868年の記事には、
『ブランシュ・ダンティニーは女優ではなく、ただの策謀家にすぎない。彼女は美しくもなく唄も踊りも下手。ただ背後に〝人〟 がいるだけだ。
ただ不思議なことに彼女のつけている無数のダイヤモンドが演技していることだ。』
このような痛烈な批判にもかかわらずブランシュは豪華な衣装で舞台に上がり続けた。
もちろん以前ロシア大公から贈られた無数のダイヤモンドをつけて。
訪れる客たちには貴族、銀行家などの金持ちだけでなく、インドのマハラジャ、エジプトの副王、イラン皇帝までいました
クルティザンヌは頭のいい女性しかなれませんでした。
クルティザンヌの屋敷では上流階級の男性たちが秘密会談をすることが多く、こうした会談についていけるだけの教養、知識が要求されました。
またパトロンたちが必ずしもフランス語を話すとは限らなかった。ヨーロッパを転々とし、その国の王侯貴族を籠絡したのだからブランシュの語学力は凄まじく高く、おそらく数ヶ国語を操ったと思われます。
クルティザンヌとして女優として人気絶頂期のブランシュを襲った悲劇。
それはブランシュは生まれてはじめて恋を知ってしまったことだった。
高級娼婦という職業の女にとって本気の恋は命取り。
相手はテノール歌手のルーチェだった。
はじめての恋はブランシュを少女に戻した。
財政上のパトロンである銀行家ビスコフシャイムとも別れてしまいます
ブランシュはルーチェ葬儀費用のため劇場支配人に借金をした。
もちろんブランシュ自身にお金がなかったわけではなかった。
『ルーチェの葬儀費用のためのお金よ。私がベッドで稼いだお金であの人の葬儀をしたくないの。』
純粋な気持ちを取り戻したブランシュには以前のようなバイタリティーが見られなくなり、借金も増えすべての財産は抵当に入り、債権者たちに追われるようになった。
債権者たちはどこまでも追ってきたが、死んでしまったルーチェがプレゼントしてくれた安物のトルコ石だけは肌身離さず持っていた。
フランスに居られなくなったブランシュは以前のお客であったエジプト副王の誘いを受けてエジプト、カイロへ向かった。
外国での旅まわりが半年以上も続いたが最愛の母が死んだとの知らせを受けてパリへ戻った。
借金取りから身を隠すためホテルを転々としていたブランシュは六月に奇妙な熱病にとりつかれた。
病名は天然痘とも腸チフスとも言われていますが、1874年6月28日にブランシュは死んだ。まだ34歳だった。
ブランシュは〝虚飾のパリ″ を舞台にクルティザンヌとして女優としてあくなき欲望をみせ、大衆から熱狂的に迎えられ、エミール・ゾラに〝ナナ″のインスピレーションを与え一つの文化を形成したことはひとつの事実なのだ。