「ブーリン家の姉妹」や「ザ・チューダーズ」に出てくるエリザベス一世の母、アン・ブーリン。
イギリス貴族の娘としてアンはおよそ1502年にに生まれ、思春期に当時の最も洗練された国、フランス宮廷へ留学しました。
ブーリン家は、わずか4代前まで平民(地方農民)の家系であった。
アン・ブーリンの父親は野心家であり、次々と伯爵家と縁組したり娘を国王に差し出すことで、爵位や領地を増やしていった
アン・ブーリンが留学した時代のフランスはフランソワ一世の時代で、優雅が尊ばれ、華やかに栄えた豪奢で雅な宮廷でした。
アンはフランス宮廷に10年ほど居たので、フランスの貴婦人たちのファッションセンスや優雅な立ち居振る舞い、生活様式、ユーモアとエスプリの効いた会話術などを取得し、
『言われなければ生粋のフランス女性にしかみえない』と評した宮廷人もいたほどでした。
すべてにおいてフランス風マナーを身につけたアンは、1522年頃、故郷であるイギリスに帰国。
イングランド宮廷にキャサリン王妃の侍女として仕え始めます
アンとヘンリー8世が出会った時の王妃キャサリンは、36歳でした。
結婚当時は、〝ヨーロッパ一美しい王妃様だ〟と言われたキャサリンでしたが、度重なる出産のため、容姿は衰えるばかりでした
(しかも後継の男子は育ちませんでした)
キャサリンとは正反対に6歳年下の夫、ヘンリー8世は、男盛りの30歳。。
(ヘンリー8世。カリスマ性があり文武両道なキングでした。)
ヘンリー8世は、もはや男子産めないだろうキャサリンを見切り、侍女を相手に情事を繰り返すようになります。
そんなタイミングで登場した20歳のアンに、ヘンリー8世はいいよりますが、あっさり断られます。
それまで英国一の権力者であるヘンリーは〝振られた経験″ などなく、そんな勝気な魅力を持ったアンに興味を惹かれていきます
王の度重なる求愛から逃れるためアンは実家のあるヒーバー城へと帰ってしまいます。
ヘンリーは、アンに熱烈な手紙を何通も書き、ある日には突然政務を投げ出し、ヒーバー城にいきアンへの愛を訴えます。
(アンの実家、ヒーバー城は見学できます)
アンは、
『その仰せには従いかねますわ。私は王妃になるには身分が低すぎますが、そうかと申し上げて愛人になるには、誇りが高すぎます。』
自分が欲しければ結婚しかない!という見事な逆を狙ったセリフを吐きます。
ヘンリー8世は、キャサリン王妃と離婚し、アンとの結婚を本気で考え始めます。
1527年アンはヘンリーのプロポーズを受け入れます。
2人は、食事、ミサ、狩猟やダンスのときまで一緒でしたが、ベッドを共にすることは頑なに拒みました。
アン・ブーリンは美人ではありませんでしたが、意思の強い女性でした。
アンは浅黒い肌に黒髪に黒い目。当時の美人は金髪、碧眼、色白が美人の必須条件でした
アンは誰もが認める美女というわけではありませんでした。
ヴェネツィア大使はアンについて
『マダム・アンは世界有数の美女とはいえない。肌は生気がない。取り柄といえばイギリス王の寵愛だけだ』
と辛口なコメントを残しています。
絶世の美女でなくてもアンはヘンリー8世の宮廷でファッションリーダーでした。中世に流行したエナンと呼ばれるとんがり帽子を廃止し、フランス風の帽子を逸らせました。
ドレスの生地には王妃にだけ許された高価な紫色を選び、これに金糸、銀糸、宝石を散りばめました。さらにアンは〝人並み外れた上品さと話しぶり〟で人々をひきつけました。
1529年からヘンリー8世はアンに毎日一個の宝石を送り続けました。
ダイヤモンドのブレスレット、ハート型の髪飾り、袖に真珠が縫い付けられたドレスなど。。
しかしキャサリン王妃との離婚問題は6年以上かかり、アンは、当時としては中年である28歳となり、ストレスのため、だんだんヒステリックになってしまいます。
ヘンリー8世はこれに激怒して、ローマ教皇庁との断絶を決意した。
こうしてイングランド国教会の原型が成立することになった。
国王至上法によって、イングランド国内において国王こそ宗教的にも政治的にも最高指導者であることを宣言し、ヘンリーは1533年5月にアンを正式な王妃に迎えた。
※アン・ブーリンの振る舞い世界中で大ヒットした〝ルールズ〜理想の男性と結婚する方法〟に内容がそっくり
つまり婚前交渉が認められず、処女でなければ結婚できなかった時代の婚活法を真似しました。
つまり目の前に人参(セックス)をぶら下げる方法です
ちなみにテイラー・スウィフトやアメリカ一のモテ男ケネディJr.と結婚したキャロリン・ベゼットさんの愛読書。
(トマス・モア 代表作はユートピア)
これに反対したトマス・モアも死刑が確定。すみやかに斬首された。
ロンドン塔の断頭台でトマス・モアが処刑された時、『自慢の髭は切らずにどうか首だけを首尾よくはねてくれ』と処刑人に頼んだ。
どんな重大事に直面しても気の利いたセリフを吐いた。
トマス・モアの書いた『ユートピア』はルネサンス期のヨーロッパで最も読まれた書物であり、彼自身も大変な識者であったトマス・モアの処刑はヘンリー8世の誤りであり、イギリスにとっても国家的損失だった。
また、国王至上法によってカトリックの修道士の多くが解散させられ、反対した多くの修道士が処刑された。
1533年5月23日、キャサリン王妃との結婚の無効の宣言がなされた。
この時がアン・ブーリンの人生の絶頂だった。
しかしロンドン市民の間では、依然としてキャサリン王妃の人気は高く、アンとヘンリーの結婚に対して冷めきった空気が流れ祝福する人々はほとんどなくまるでお葬式のような結婚式だったと言われています。
さらに生まれた子は女の子だったので、ヘンリー8世の落胆と怒りは大きく、一度は愛した相手だが、その分飽きやすいヘンリー8世は、アン王妃が30代半ばにさしかかると、キャサリン王妃のときと同じよう、アンの妊娠能力をはっきり見限ります。
ヘンリー8世は〝アンが必ず世継ぎである男子を産む〟と信じきっていました。
期待が大きすぎだから故、ヘンリー8世はアンに余計に冷めたのです。
アンに冷めた時、ヘンリー8世はそれまでの自分をひどく後悔したそうです。
周りには〝アンは自分に魔法をかけた〟とさえ言っていました。
でも結婚後の行動をみるとヘンリー8世ってけっこうモラハラですよね…話し合いができないし、都合の悪いことはアンに押し付けているし。。
処刑されることにより、1人娘エリザベスの行く末を心配していたアン。
エリザベスを産んだ翌年、アンは再び妊娠しますが、流産。
この妊娠が最後のチャンスだと悟っていたアンは流産したとき、悲鳴をあげたという。
しかも流産した子は男の子だったのだ。
ヘンリーは、24年連れ添ったキャサリンを捨て、ローマ教皇にケンカを売ってまで、王妃にしてやったのに息子を殺した、と言い放った。
流産からわすが3ヶ月後、1536年、アン王妃に死刑判決が出ます。
(アン・ブーリンがくぐったロンドン塔の反逆者の門)
アンはロンドン塔にて斬首と決まる。
死刑に際し、アンの弟ジョージ・ブーリンや無実の男性5人も死刑宣告を受けた。
この門はTraitor's Gate(反逆者の門)と呼ばれています。反逆罪で捕らえられた多くの囚人達がロンドン塔に投獄される場合通ったのがこの反逆者の水門です。
ロンドン塔時代は高貴な人々が閉じ込められる場所でしたが、この門をくぐったら最後生きて出てこれないと言われている水門
さらにその屋上にはロンドン塔で処刑された人間の生首が何十個も晒されていたらしい。
アン王妃が愛したヘンリーという男は、子供っぽく、ワガママで欲しいものは手に入れないと気がすまず、反対するものは片っ端から処刑する身勝手きわまりない王。
アンを手に入れた瞬間からヘンリー8世はうっすらと失望しはじめました。
手に入った愛はいらないとばかりに。手に入れたものには興味を示さないヘンリーの残酷さ。。
アン王妃の処刑が無事終わった時、キャサリン王妃が死んだとき同様に喜んで、新しい愛人ジェーン・シーモアに求婚しました。
処刑からわずか10日後、ヘンリー8世は愛人だったジェーン・シーモアと結婚。
アンはヘンリー8世と結婚前、ラブレターに、
自分の運命をかすかに予感したのでしょうか?
〝千回死んでもあなたへの愛は変わらない” と書いています。
1536年5月19日アン・ブーリン処刑。
アンの首が台から転げ落ち、処刑が無事に終わったことを示すため首切り役人ジャン・ロムバウドがアンの髪を掴んで持ち上げた。
この時アンの亡骸をいれる棺を用意するのを忘れていたので、急遽弓を入れる塔武器庫に納められた。
この箱は丈が短かったため、アンは首を腕に抱えるようにして納めました。
このような不手際は19世紀教会の改築によって判明した。
処刑の翌日から自分の首を抱えたアンの幽霊が目撃されるようになります。
(イギリスに旅行の際には行きたいロンドン塔)