実はヨーロッパではダイヤモンドは権力の象徴で男性の物でした
女性ではじめてダイヤモンドを身につけた女性は、アニエス・ソレルという女性です。
またその美しさから〝15世紀最高の美人〟と謳われました
彼女がいなければ今私たちはダイヤを身につけられなかったかも笑
アニエス・ソレルは、1421年に一兵士ジャン・ソレルとカトリーヌ・ド・メーニュレの娘として生まれました
母親はヴェルヌイユの女城主でした。
15歳の時からフランス国王、シャルル7世の義弟ナポリ王ルネ・ダンジューの妻の侍女をしていたようです
そして1444年のこと、シャルル7世は南仏トゥールーズに滞在していたもとに、ルネ・ダンジューが訪れてきました。
ルネ・ダンジューを迎えいれた時、シャルル7世は、1人の侍女に目を留めました。
その侍女は、白い肌にほっそりした体にブルーの瞳をした絶世の美女でした。
気を利かせた側近が、
『アニエス・ソレル嬢です』
と紹介しました。
シャルル7世本人はX脚の弱々しい小男だったようです。この肖像画はルーブル美術館にあります)
シャルル7世に見初められた時、アニエスは、22歳か24歳で成熟した色香も加わり、アニエスの美しさは頂点に達していました。
当時の教皇ピウス三世さえ、
「このような美しい女性が存在するとはとても思えない!」
と言わしめたほど
『彼女こそかつて私がかいまみることのできた、美人の中の美人である。』
とアニエスの容姿を書きました。
アニエスがとてつもない美人であったことは間違いないようです
アニエスにぞっこんになったシャルル7世は、アニエスにロシュ城というお城をプレゼントしました
アニエスにぞっこんになったシャルル7世は、アニエスにロシュ城というお城をプレゼントしました
さらに公式の場でもアニエスのそばを離れたくないシャルル7世は、考え抜いた挙句に、公式寵姫という存在をうみだしました
公式寵姫とは名称どおり公式の存在であって外国大使を引見し、宮廷舞踏会を主催します。
王妃を凌駕する権力を持ち、事実上の宮廷の女主人のこと
アニエスは服装・装身具・家具・食事・儀礼などすべての面において最高の待遇を得ました
シャルル7世はアニエスを閣議にまで参加させたといわれています
しかしこれにショックを受けたのがシャルル7世の王妃マリー・ダンジューです
王妃マリー・ダンジューは母親であるヨランド・ダンジューに夫に愛人ができてつらい、と相談します。
しかし賢夫人であったヨランドは娘に、いくら騒いだところで、容姿の点でも才気の点でもとてもアニエスには敵わない。ここはアニエスと仲良くしておいたほうが得だ、と助言しました。
王妃マリー・ダンジューは育ちがよく従順な性格だったため、母親の教えを実行しました。
王妃はアニエスと散歩したり、食事をしたり仲良く暮らすことに決めたのです。
しかしこれは王妃にとってつらいことでした
宮廷を訪れた人はこう記している。
『王妃よりもアニエスの方が美しいドレスを着、指輪をはめ、高価な宝石を持っている。アニエスの食事の方が豪華である。要するにすべてにおいてアニエスの待遇の方が上である。』
敬虔な王妃は14人産んだ子供のうち、4人が死んで以降、黒いドレスしか着なくなった
一方アニエスはファッションリーダーである
青春の盛りですらあまり美しくなかった老いた王妃をみて宮廷の人々は同情を寄せていた。
この時期のシャルル7世についてピウス2世は回想録で、
『彼は、たったの一時間もその美しい恋人と別れて暮らすことが出来ない。』
と書き残すほどアニエスにぞっこんでした
さらにシャルル7世は、これまで男性のみにつけることを許された権力の象徴だったダイヤモンドを、愛するアニエスにプレゼントします
アニエスに夢中になるあまりシャルル7世は政治を省みなくなり、1448年のフランスは史上稀に見る重税の国となり、貧困にあえぐ人々の不評を買うことになってしまいました
そのため〝美貌のアニエス〟のパリでの評判は最悪でした
ことにパリの人々の注目の的になったのはアニエスの考え出した突飛な服装がバッシングされました
当時上流階級の貴婦人たちは比較的ゆったりとしたドレスを着ていましたが、スタイルのよいアニエスは身体の線がはっきり見て取れるように体型にぴったりしたドレスを着ていたため非常にセクシーな感じがしました。
首から肩にかけての線が特に美しいアニエスは、それを強調するように片方の乳房をかくし、もう一方だけを完全に露出する、というとんでもなく大胆な発明をしました。
ベルギーのアントワープ王立美術館に展示されている『ムランの聖母』はシャルル7世お抱えの画家ジャン・フーケがアニエスをモデルとして描いた傑作で今日でもアニエスの独特の服装と比類なき美しさを伺うことができます
さらにアニエスはとてもおしゃれで刺繍をふんだんに施したドレスに黒テンの毛皮を縁取り、腰には金とルビーがついたベルトを巻き、ゆったりしたトレーンをつけたりしており、ときには長さ8メートルなることもありました
髪を高く結うのも好きで眉をそっていました
こうしたアニエスは心を打つほど気高い姿をしていました。
比類なき美貌のアニエスは、また頭脳明晰で、シャルル7世が自分に夢中になりすぎて、イギリスがフランスを狙っているというのに、国王が何もしない、状況に危機を感じます。
政治を疎かにしていることを危惧し、イギリス軍をフランスから追い出させるためにシャルル7世の前でアニエスは一芝居打って戦争に行かせ、見事イギリス軍をフランスから追い出し100年戦争を終結させました。
(シャルル7世が国王になれたのはジャンヌ・ダルクのおかげです)
1449年、4番目の子を妊娠していたアニエスは国王からもらったロシュ城で平和に暮らしていましたが、突然腹部の痛みを訴え出血は止まらず、
1449年、4番目の子を妊娠していたアニエスは国王からもらったロシュ城で平和に暮らしていましたが、突然腹部の痛みを訴え出血は止まらず、
1450年2月9日火曜日午後6時、フランス王国最初の公式寵姫アニエス・ソレルは国王の子どもを身ごもったまま突然この世を去りました。
その心臓は摘出され、ジュミエージュに作らせた墓に葬られた。
そして遺体はロワール河畔のロシュ城に運ばれて、彼女の全身の彫刻をほどこされた暮石の中に安置された。
しかし水銀は病気の治療や、化粧品にも入っていましたが、あまりに多量の水銀が発見されたので、故意に必要以上の水銀をアニエスに与えたのではないかといわれています。
アニエス・ソレルへの愛によって生まれたこの他に類をみないフランスの〝公式寵姫″ 制度はそれから約350年間、最後の公式寵姫デュ・バリー夫人まで華やかに続きました。
国王の愛人たちは、王妃を差し置き、フランス宮廷の華麗なる花・政治の中心となっていきます。