ポーリーヌはただ自分との恋のみに落ちており、そして彼女の唯一の仕事は快楽を求めることだった。ーオーストリア大使メッテルニヒ

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帝政時代にはヨーロッパ一の美女と呼ばれたフランス皇帝ナポレオンの妹、ポーリーヌ・ボナパルトは、多くの恋愛を楽しみ、兄が皇帝になると、兄ナポレオンの権力を利用しまくり、わがまま放題に生きた妹
でしたが、天真爛漫な性格からナポレオンから最も愛された妹でしたおねがい





(若き日のポーリーヌナポレオンの妹たちで最も美しかったのはポーリーヌでしたしかし耳の形は美しくなかったので上手く隠していました)



ポーリーヌは2番目の結婚でローマの名門ボルゲーゼ大公妃となり、兄の力を利用し、パリ社交界などで悪評がたつほど遊び暮らした伝説の美女ポーリーヌ。

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しかし兄、ナポレオンが失脚した時は、兄のために奔走し、流刑地となったエルバ島に会いにいったのは、7人兄弟のなかでもポーリーヌただ一人でした


(若き日のポーリーヌ)

ポーリーヌ・ボナパルトは1780年10月20日にコルシカ島で誕生しました。


早熟なポーリーヌはさっそく15歳の時に既に恋愛スキャンダルを起こしていますびっくり

兄ナポレオンの部下ジュノー将軍と恋仲になりますが、お金がなかったため破局えーん

(ポーリーヌの初恋の相手、ジュノー将軍)

親子ほど年が離れている、といえる41歳のスタニスラ・フレロンと恋に落ちました。

(次にポーリーヌが恋に落ちたフレロンニコ

しかしこの恋は母親の反対によって結婚できませんでした。






その後ポーリーヌは16歳で、金髪の美男子、シャルル・ヴィクトール・エマニュエル・ルクレール将軍と恋に落ち、恋愛結婚しましたラブドキドキドキドキ

(ポーリーヌの最初の夫、ルクレールニコニコ


この結婚は幸せなものでしばらくするとポーリーヌは妊娠して息子デルミィドをもうけました。





ポーリーヌは多情な性格でしたが愛する人には大変忠実な性格だったようです。

しかしこの出産ではトラブルがあったらしく、ポーリーヌは二度と妊娠できなくなりましたアセアセ

そのうえ、愛する夫、ハイチで植民地統治をしていたルクレールは30歳の若さで黄熱病にかかってしまいます。

発病から2日後ルクレールは

『もう死を待ち望んでいる。それほどの激痛だ』

と漏らし翌日に死去しました。

さらにポーリーヌが可愛がっていた息子デルミィドも5歳で亡くなってしまいます。

未亡人となったポーリーヌはフランス、パリへと戻ってきました。ポーリーヌはまだ22歳で、パリ社交界で最も美しい女性として知られていました。


(ポーリーヌは母親レティツィアの美貌を受け継いだと言われていますニコドキドキ

ポーリーヌがサロンに登場した瞬間部屋が明るくなり、ポーリーヌはいつも彼女の賛美者たちに囲まれていました。




ポーリーヌには人々を虜にする能力が備わっていました。ポーリーヌがワルツを踊り始めると誰もが踊るのをやめてしまうほどだった。




衣装に大変お金を費やしたポーリーヌ。





ピンクのサテンで裏打ちされたピンクのチュールを纏い、中央にはダイアモンドのブローチをつけ、胴着もサテンでそこにも最高級のダイアモンドが散りばめられており、髪飾りにもダイアモンドがあしらわれていました。








ポーリーヌは、小柄でミルクのような白い肌を大変自慢しており、死ぬまでミルク風呂を欠かさなかったようですニコ





しかし長期旅行の際もミルク風呂を欠かさなかったのでポーリーヌは旅先の民家を何軒も破壊してまでミルク風呂にはいったりしていましたガーン

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民家をぶっ壊しといてミルク風呂に入ったポーリーヌは、

『ごめんさないね。でもこれは私にとって必要なの。』

とのたまいました。






ポーリーヌはそもそも世間の評判などには気にもとめませんでした。
誰が、なんと言おうと自分が今美しく、これからも美しくあり続けることが重要だったのです。


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ポーリーヌは気まぐれで、人種を問わない多くの恋人をもち、兄がフランス皇帝になったのにもかかわらず、自分らしく最後まで生きました。




戦国時代の女性のような不自由な思いはせず、
終生ポーリーヌはポーリーヌであり続けました。

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時に兄ナポレオンや周りの人々がなんと言おうと自分らしい生き方を息を引きとる瞬間まで貫き通しました。

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それがどんなに非常識なことであろうと非難されても、兄がフランス皇帝になっても、ポーリーヌは自分の生き方を変えませんでした。



ポーリーヌはイケメンが好きだったようで恋人も美男子揃いでした。



コメディフランセーズ座の名俳優タルマや画家のニコラ・フィリップ・ド・フォルバンとも恋に落ち、彼もまた名門の出で洗練された美男子だったそうですキョロキョロ

(ポーリーヌの恋人でコメディフランセーズ座の名俳優タルマラブ

しかしこの恋は母親によって反対され別れさせられてしまいましたぐすん逆ギレしたポーリーヌは自分に吠えてきた犬をすべて射殺させたといわれていますガーン

それでもポーリーヌは歌の教師フェリーチェ・ブランシーニ、美男の作曲家ジョバンニ・パチーニと付き合いましたぼけー


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(ポーリーヌと2番目の夫ボルゲーゼ大公


ポーリーヌはイタリア屈指の名門貴族カミッロ・ボルゲーゼ大公と結婚し、大公妃(プリンセス)となり、ボルゲーゼ宮殿に住むことになりました。


(ポーリーヌの2番目の夫、ボルゲーゼ大公)

カミッロは28歳で非常な財産家であり美男でもありましたが、母国語でもきちんとした文章が書けないほど知的な問題を抱えていました。


2人は離婚せず別居することになりました。





この頃ポーリーヌは、どこへいくにも男性に抱きかかえてもらい移動していました
お風呂に行く時は巨人のアフリカ人奴隷に抱かれて風呂場へいっていました。

しかし、この誘惑はするようなコケティッシュな行動は、実はひどい下腹部痛(卵巣、卵管に感染症の疑い)性病など子宮系の病気を抱えていました。

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おそらく最初の出産のときに感染したとされ、一時手術まで考えたほどポーリーヌを生涯苦しめました。。ぐすん


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(帝政スタイルのドレスを着たポーリーヌ


手術のため麻酔薬を何リットルも注文したこともありますが、危険すぎるといわれ手術は断念しています。。ショボーン



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気まぐれなポーリーヌは、

「彼女は18歳の少女なようなドレスをきているが、化粧の下はあきらかに30女だ」

と痛烈な非難されることもありました(・・;)

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しかしポーリーヌは自分のスキャンダルに、ついて全く無関心だったようです。


(ポーリーヌの兄でフランス皇帝ナポレオン)


兄ナポレオンは、モラルを大切にしていましたが、ポーリーヌは兄の考えを尊重することなく、二番目の夫ボルゲーゼ大公の感情も考えず、多くの愛人を作りました。







1823年には胆汁症のひどい発作を起こしましたが、持ち直し、英国の名門貴族デヴォンジャー公爵と交際を始めるまでになりました



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デヴォンジャー公爵は、ポーリーヌに始めて会った日のことを日記に書いていました。



『彼女は好奇心をそそる人だ。美しさの大いなる名残。礼儀正しく、親切だ』

と記しています




しかし1825年の春にはポーリーヌの健康はひどく悪化していました。




生きることへの頑強な執着心をポーリーヌは放棄しつつあった。

『私は悲惨で恐ろしい苦痛のただ中で死んでいきます』



ポーリーヌの肝臓も胃も彼女に苦痛をもたらし、8日間も苦しんだあげく、1825年6月9日午後一時44歳の若さで亡くなりました。



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(ポーリーヌの美しさを永久に残すことになるカノーヴァ作のポーリーヌ)



生前、ポーリーヌは

いつ死んでもいいわ。だっていつも美しかったもの。』






という言葉を残し、〝彼女ほど美しくあるとことの楽しみを味わった女性はいない″と言われています。








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