ー美しき征服者コーラ・パールよ、永遠に。
コーラ・パールはイギリスの良家の出身でした
このことがきっかけで男への憎しみと自らの魅力を認識するようになりました。
しばらくはイギリスにいたコーラ
(ドゥミモンデーヌ=高級娼婦の意味ですが、大邸宅をもち王族顔負けのライフスタイルを送っていました)
本名は、イライザ・エマ・クラウチ。
1835年生まれでロンドンで祖母と一緒に住んでいました
コーラ派13歳の時に小児性愛者の中年男性に薬を盛られ、強姦されたと言われています。
また、19歳のコーラは教会からの帰り道に、ある男性に騙されてたくさん強いお酒を飲増され気がついた時には姦通されていたというつらい経験をしています。
このことがきっかけで男への憎しみと自らの魅力を認識するようになりました。
彼女の男性への復讐心と同時にに自分の女性としての魅力について自信が芽生えていったのも当然でしょう。
しばらくはイギリスにいたコーラ
コーラはその後、ロンドンの高級娼婦が集うクラブ「アーギルルーム」の経営者ロバート・ビッグネルの愛人となり、パリへ渡海したが、パリの華やかな魅力にとりつかれた彼女はロンドンへの帰国を拒否。
パリで〝コーラ・パール〟と名を変え、演劇界に乗り込みました。
しかしお色気以外の技能は発揮できず、大した役ももらえなかった。
しかし、コーラにはかつて修道院で鍛えられた社交的マナーが身に備わっており、富裕層の男性に対するアピールは申し分なかった
程なくコーラは、フランス第二帝政下の富裕層・権力者の評判の的となり、女優としてではなく愛人として、彼らの幾人かとロマンスに落ちます。
彼女はお金を持っていなかったが、当時の宮廷お抱えのデザイナーであるウォルトやラフェリエといった高級ブランドの服で身を飾ることで、富裕層の男性の気を引くことにも成功した。
しかし愛人とフランスに旅行中、フランスの自由さに魅了され、フランスでイギリス式ドゥミモンデーヌとして売り出します。
(ドゥミモンデーヌ=高級娼婦の意味ですが、大邸宅をもち王族顔負けのライフスタイルを送っていました)
当時のライバルであったマリー・コロンヴィエーに、
さらにパリでは王族ナポレオン公をパトロンとし、
今でいうアイドル・スターのような存在まで登りつめます。
しかし普仏戦争が起こった頃、コーラはだんだんと破滅への道へと向かっていきます。
コーラ・パールが破滅してまで私たちに残したもの。
ちなみにパリで最初のアイシャドウをつけたとか
・・コーラはイギリス式クルティザンヌにしか過ぎない。ただバストはなかなかのものですから昔の画家ならモデルにしたかもらしれませんが、、
という若干苦し紛れなやっかみを言われたりしていました
イギリス人としての特質を抱いて、コーラはパリでの成功を〝計画”していました。
ドゥミモンデーヌは常に華麗でエレガントな雰囲気を漂わせねばならない!
そうでなければただの娼婦に過ぎない、と考えたコーラは、まだあんまりお金がない時も有名デザイナー、ウォルトのドレスや装飾品には贅沢なものを選び、自分の商品価値を上げていました。
(高級娼婦とは思えない可愛らしい雰囲気そこがプロなのかしら。。?)
第3代リヴォリ公爵はコーラに召使いやシェフまでも雇ってあげています
コーラは合計60頭もの馬を買ってもらい、イギリス人に馬丁を雇い、その全員に黄色い制服を着させました。
この行為は、フランスではなじまないけさとであり、同業者から反感を買っています
コーラは一晩で5000フランを稼ぐ高級娼婦となり、生活はどんどん派手になっていきます。
この莫大な稼ぎを得るため、コーラは蘭柄の絨毯の上でヌードダンスを披露したり、シャンパンで満たされた銀の浴槽で大勢の客の前で入浴することも厭いませんでした。
さらに時の皇帝ナポレオン3世すら頭を垂れて思し召しを伺ったという
一度などコーラは自分のドレスに合わせて愛犬をブルーに染めたこともあり、ゴシップを提供すると共に、コーラ・パールにとって最高の宣伝でもあった。
そんな批判にもかかわらず、コーラのライフスタイルは第二帝政期にセンセーションを巻き起こしました。
この当時果物をテーブルに出す際、ぶどうの葉をのせることが一般的であった。
しかしコーラはそんな当たり前のことはせず、イタリア産のパルマすみれの花にフルーツを盛ったのである。
(時期はずれなため、パルマ産のすみれは一回分で1500フランもした)
さらにパリでは王族ナポレオン公をパトロンとし、
『バラのように新鮮な女』、『彼女は究極の贅沢の象徴であり、気まぐれを満足させるためなら太陽さえ盗みかねない』と
今でいうアイドル・スターのような存在まで登りつめます。
コーラが王侯貴族たちの競争心を掻き立てた理由の一つに、フランス女性にはない〝徹底したシステム”がありました。
コーラは、客の氏名、訪問日時、提供した金額、男性としての能力までメモしていました。
しかもこのメモは客が自由には手に取ってみれるようにしていました
コーラはたった8週間で2億円相当使っていました。
しかし普仏戦争が起こった頃、コーラはだんだんと破滅への道へと向かっていきます。
さらにコーラ・パールを追い詰めたのは『デュヴァル事件』です。
コーラが37歳の時、アレクサンドル・デュヴァルという10歳下の青年と付き合い始めた。
アレクサンドル・デュヴァルは当時の有名レストランの創業者の息子で彼はコーラに貢ぎ続けた。
ある日などはコーラに100ページからなる本をプレゼントしたが、その一枚一枚が1000フラン紙幣であった
そんなことを続けているうちにデュヴァルの財産も底をついてきた。
コーラはあっさりデュヴァルを捨てた。絶望した彼は1872年12月19日、デュヴァルはコーラの屋敷に押しかけ、コーラ目がけてピストルを撃った。
しかしピストルは暴発し、デュヴァルは瀕死の重症となった。
しかも命を懸けたこの決死の行為に対しても、コーラは誰の助けも医者も呼ぶこともせず、まるで何事もなかったかのように自室に戻り、眠りについたのである。
さすがにパリ市民はこのスキャンダルでコーラに対してネガティヴなイメージを強くしていった
コーラ・パールが破滅してまで私たちに残したもの。
彼女のファッションは、第二帝政期の上流貴婦人らに影響を与え、ドレス・髪型・乗馬服など、彼女を追従する女性も多かった
ちなみにパリで最初のアイシャドウをつけたとか
コーラ・パールは「フランスに近代的なメイクを紹介した最初の女性」であり、ロンドンから取り寄せた化粧品を惜しげもなく使った。
まつげや目の周りにペイントを加えるアイシャドー、TPOによる髪の毛の染め分け、白い肌を至上の価値とする時代にも関わらず肌を小麦色に焼くことなど、様々な話題を振りまきました
1863年にはセルビア王子の容貌をめぐって別の娼婦マルト・ド・ヴェールと口論になった。
二人とも乗馬に自信を持っていたため、乗馬用の鞭を武器として決闘することになった。双方とも顔に多くの傷を受け、一週間は人前に出られないほどだった
コーラ・パールは貢がせた莫大なお金を湯水のごとく浪費しました。
そして老後のことは一切考えない。
コーラ・パールは貢がせた莫大なお金を湯水のごとく浪費しました。
そして老後のことは一切考えない。
それ故彼女たちは王族から愛されました。