ニノン ド ランクロ の職業は高級娼婦。
でもその辺りの娼婦とは違います。二ノンの本名はアンヌ・ド・ランクロといい、由緒正しい貴族の家に生まれました。
父親はトゥレーヌの貴族。母親もオルレアンの貴族出身でした![ニコ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/022.png)
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なぜ貴族のお嬢さまが高級娼婦などと呼ばれるようになってしまったのでしょうか?
アンヌが15歳の時(20歳という説も)に両親が他界し、アンヌは孤児になってしまいます![えーん](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/018.png)
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しかし父親は遺産として7、8千リーブルの年金を残したのでどうにか暮らしていける程度のお金はありました。
母親はアンヌを修道女にしたかった、と言われています。
しかしアンヌは母親のキリスト教的な厳格さよりも父親の自由を強く愛する血を強く受け継いでいました![ニコ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/022.png)
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アンヌはこの父親の遺産のおかげで自由にいきることができたのです。
この安定した収入のおかげアンヌは他の高級娼婦とは違い相手を自由に選べる立場になりました。
アンヌはこの一定の財産をもとに、名前を二ノン・ド・ランクロと改め、多くの恋人を持ちはじめました。
時の権力者リシュリュー枢機卿が二ノンを愛人にしようと莫大なお金を積みましたが、相手にしなかったのは、こうした二ノンの経済的な安定があったからです。
当時フランス一の権力者リシュリュー枢機卿はニノン似、『15万リーブル払うから私の愛人になってくれないか?』
と訪ねた。
ニノンはすかさず答えた。
『その額は…心から愛している方から頂くには多すぎるし、愛していない方から頂くには、いささか少な過ぎますわね。』
と強気な言葉でやんわりと断った、と言われています。
彼女の取り巻きの中にはコリニー、ヴィラルソー、大コンデ公、ラ・ロショフーコー、デストレ元帥、グールヴィル財務官、パリュオー元帥、ランブイエ侯爵、ブランカ伯爵などフランスの大物ばかりでした![ショボーン](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/033.png)
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しかし二ノンは一度に二人以上の男性を愛することはありませんでした。
(二ノンの恋人の一人、コンデ公爵)
二ノンはその時々の恋人たちを量ではなく、〝質″ で選ぶ二ノン独自の美学を持つことができました。
二ノン・ド・ランクロの伝説の中でも圧倒的なのは、二ノンの教養と機知とひらめきが同時代の文人や芸術家を惹きつけ、そのサロンが当代一となったことでしょう。
(劇作家モリエール
)
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二ノンのサロンには劇作家モリエール、ラ・フォンテーヌなど超一流の人物ばかりです。
さらに二ノンが死去した際にサン=シモンはしんみりこう回想しています。
二ノンは頭がよく、教養があり、エレガントで、
自分のサロンに出入りする大物たちを時に仲直りさせ、時には友人同士にし、二ノンの屋敷では何事も敬意と上品さを持って行われ、
王家の姫君たちでさえこのように大物たちをまとめることはできないだろう、
二ノンの容姿については極上の美人とは申しかねる、との意見もあるが単なる美しさより優れたもの、いわば優雅な趣きがあった。
二ノンが
〝美しくても優雅でなければ餌のついていない釣り針のようである〟
と語ったように、二ノンは汲めどもつきぬ機知の泉であった。
打てば響く才知に巧みなリュート、サラバンドにかけては並ぶ者のない踊り手であった。
このルイ13世の時代にこんなに自由に生きられた女性はあまりいないように思います。
さらに若き頃のマントノン夫人(ルイ14世の秘密の王妃)も二ノンのサロンに出入りし、二ノンの恋人ヴィラルソー侯爵と恋仲になりました。
(マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェは、フランス王ルイ14世の妻。貴賤結婚であったため王妃ではありません![ショック](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/053.png)
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最初の結婚でスカロン夫人と呼ばれ、宮廷に上がってからマントノン夫人と呼ばれた。フランソワーズと王の結婚は秘密結婚のままでした
)
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ラ・フェール侯爵という貴族が二ノン・ド・ランクロと会った時の感想が残っています。
『私はランクロ嬢のその美貌の絶頂期に目にしたことはない。だが、50歳でも、いや70歳を超えてもなお、彼女はあまたの愛人を持ち、そのいずれからも崇拝されていた。』
二ノンが79歳になった時でさえ、ジュドワーヌという若い僧侶から恋されていたとか![真顔](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/052.png)
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しかし二ノンは何ヶ月も焦らしていよいよ願いを叶えてあげました。その際になぜこれほど待たせたのか、と聞くと80歳の記録を作りたかったから
だったとか。
この男性に頼らない、一生結婚せず恋だけを楽しむ姿勢を貫き通した二ノン。
ニノンは同性をも魅了しました。
1652年頃二ノンはフォーブル・サン=ジェルマンに住んでいたが、マドロネット娼婦獄へと送られる羽目になった![びっくり](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/031.png)
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二ノンはマザラン枢機卿の計らいでベネディクト会の修道院で謹慎することになった。
ある日スウェーデンのクリスティーナ女王が二ノンの噂を聞きつけて修道院にやってきた。クリスティーナ女王は二ノンに魅了され一緒にイタリア旅行に誘った。
ニノンはその誘いを断った。
それにも関わらずクリスティーナ女王の労によりニノンは修道院から解放されマレ地区でサロンをまた開来ました
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(二ノン的な生き方はフェミニストサイドからなかなか評判もよいそう
)
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二ノンの比類なき生き方をヒントに、気品ある色香や上質の会話術などをバランスよく身につけ、人生をとことん幸せに豊かに生きる技術を手に入れてはどうでしょうか?
そして培われた知性からやってくるユーモアやエスプリに富んだ会話術ができることは恋の必須科目でした。
さらに二ノンは音楽の才能だけでなく料理の才能まであり、二ノンが発明したリンゴタルトが現在も残っています。
二ノン的な生き方は年をひとつとるごとに魅力と色香をひとつずつ獲得すること。
さらに二ノンはいくつかの名言まで残しました。
〝女性に恥じらいの法則を課したのは愚かなことです。そのために女性は男性の厚かましさだけを評価せねばならなくなったのですから〟
〝恋愛においては、恋したふりをする人のほうが本当に恋している人よりもずっとうまく成功する。〟
辛辣だが真実をついたニノンの言葉は人生経験を積み、真に自立して解放された人間にしか出てこないものだ。まさに恐れを知らぬ人生の冒険者といえる。
そして二ノンは1705年10月17日に3日間患った後、85歳の生涯を閉じました。
サン=シモン公爵は、
『二ノンは前代未聞の不徳の勝利の見本である。
だがこの不徳は機知に導かれ、美徳に補われていた。
会話は思いやり深く行き届いていて秘めやかでしかもどこまでも誠実であった。
彼女は徳高く誠意に満ちた人間といって差し支えないだろう。』
と語った。
二ノンの遺言により彼女の公証人の息子に二千フランを贈った。二ノンはこの少年の才気を愛した。
この12歳の少年は姓はアルエといい、後の哲学者ヴォルテールであった。
二ノンが生きた時代のファッション
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