CREATIVE_CREATURE_K -2ページ目

したくない・したい

何かを嫌うということ


それはきっと好きな何かを選びたいことなんだろうと


最近では思います。




物凄く冷めた視線で人を見てきたけれども

なにかをしたい!と本気で思えば

人って応援してくれるんじゃないかな?と思えてきた


というか自分が動き出したら回りも動き出したのが分かってきたため



いつだってアイデアはあるのに

自信がないために

出来ないコトを人のせいにして

逃げてきた




自分の力を信じるって本当に根拠がない

凄く揺らぎやすいものを信じるのだ



でも、凄く簡単なことでもある

信じると決めたら信じるだけなのだから




そうやって思い始めてから

過去と今を比べなくなっていることに気づいた



未来しか見なくなっている


どうしたいか?

どうしたらいいのか?




未来への方法を探っている





確実に私の思考回路が変化しているのが分かる




人の力、自分の力って凄いなーと1人感心(笑)



まぁこれも共に生きていこうと思える人がいるから出来ることだよね

感謝、感謝だ






先ほど、父が勧めるバグダットカフェという映画を見たのだが

人と人の出会いは素晴らしいなと思う



その時出逢う人、その時居る環境、空気

全てのリズムが合わさって

人生というストーリーになる




そうやって思うと、嫌いな事とかやりたくないことをやっている暇なんて無いよね~

リズムの合わない人と付き合っていることも旋律を狂わせる



自分が主になって

どんな物語を描きたいか




やっとで自分の未来を信じられる

そんな心境になった




どんなにどん底に居ても未来は変えられるよ

そう望んで行動すれば




こういうことを人に言うと

争いの絶えない家庭で恐怖にさらされながら
10年以上抑うつ状態で自信なくて
職業も転々として(転々としたからこその自信は今ならある)
うだうだ生きてた私が言うのだから
説得力があるらしい(笑)





さて、今日はブンブンサテライツのLIVE

音楽を人々の心に残そうとする人たちの

魂に触れに行こう。

空気

つらつらと重ねる言葉たちに
何か意味があったのかな?と最近思います。



結局は納得したかったんだろうと。



言葉で納得したかった。

自分のアイデンティティってなんなのか

軸が無い自分はなんなのか。



何か確固たる理由が欲しかったんだろう。




確固たる理由なんて

誰も持っていないのに

誰かに与えられるものじゃないのに



それにしても理由の分からない状況が長く続いたせいで

色々と固定してしまっていたものが多かった


元からあったマイナスとも思える状況を
自分でさらに深めてしまった感は強くて




しかし


ここ最近急速に手放してる感があって


自分がこう思われること

自分がこう思われているだろうと思うことを思い煩うこと



流行の言葉で言えばこじらせていると言うこと



現実に理由を探さないと生きていけなかったこと

きっと生きる理由とかじゃなくて

自分で理解出来ないことが多かったから

それに理由をつけようとして

理由を探すことが生きる目的みたいになっていた



自意識
プライド
弱さ
強さ



あぁ、以前私はこの世に絶対というものがあるというなら
死だけだと語っていたが
過去を変えることも絶対に出来ない


理解不能の過去にとらわれる必要ももう無くて




人と同じであることや
人と違ったことをアピールすることとか

人と比べることをしなくて言い


きっと私は人よりも出来ないことを
人と違うということにして優越感に浸っていたかっただけなんだろう



プラスでもマイナスでもなくゼロになりたい

と先日コーチングしてもらっているときに私は口にしたが



本当に言葉も何も要らない
穏やかな空気の中
暮らしたい


その空気は紛れも無く自分から発するもので

人を包み込みたい




そういった空気を作る大事に気づけたことは

こうやって足掻いてきて良かったと思えること




批判されても
貶されても

褒められても
煽てられても


私は私

あなたではない



とても清々しい気分だ





今人生で一番心が軽い



とてもとても暗い水の底から
微かな光を見ていたあの頃


ゆるやかな春の小川のような水面に
憧れる今

いや、憧れるんじゃなくて
もうそこにある



自分を蔑ろにして人に合わせたり頑張ったりって
実はとても楽な生き方なんだ


自分を大事にするって日本人、私にとってはとても困難な生き方なのかもしれない


けど、もっと自由であるために

私は我侭になっていくよ




ふんわりした空気のような人間になりたいなぁ。

不条理であるとか

攻撃するよりも許すほうが難しい。



とてもとても深いと思う。



愛情を持って人と接するということは裏切られることも承知であるということ。


人はぬくもりを求めていつも彷徨っていると思う。


哀しいかな人間はどこまでも孤独な生き物だ。



そこで出会い、育み、次の世代へ繋げる
そういう大きな流れの中にいるのに

ただただ愛して育めばいいのに


なぜ、こんなにも憎んだり蔑んだりしてしまうんだろう。

見失ってしまうんだろう。




先ほどアイボを修理する人々の番組を見た。
アイボを修理する人たちというよりも
アイボと共に暮らす人々の番組ともいえると思う。



ロボットセラピー



何故ロボットなんだろう?

多分、人は別れるということにいつまでも慣れないんだろう
拒絶されるという重みを受け止められなくなっていくんだろう。



きっとそれは今も昔も同じなんだろうな。



きっとロボットを愛している自分と言うこともしっかり分かっていて

死なない、拒絶しないという安心感が人を癒すんだろう




無償の愛

って多分こういうこと。




人間がそうやって愛情を持って人に接することが出来れば
争いはもっと小さくなると思う




中学1年生の男の子が殺された事件も
もし報道されている通りリンチのようなことだったとしたら
想像出来ないのかな?刺されたら痛いし、死ぬ可能性だってある


セクハラの問題だってそう
セクハラ発言とか発言内容以前に、嫌がってるってことに気づかないのかな?
(私はそこらへんは男性の性だと思っているので、発言はある程度容認するが、抱き疲れたりのボディタッチをされたら急に冷たくなります)

戦争へ行ったジャーナリストが殺されることについて「自己責任」だと片付ける人々も
思考停止を引き起こしている気がする。




小学生のころに当たり前のように聞いた
「自分がされて嫌なことはしない」ということ
出来ない人が多い気がする。


そんなにも余裕の無い生活を送っているのだろうか、世の中の人々が




多分、どんな生活をしていたって

自分が自分を認められないと、大事にしてあげられないと
どこまでいっても不自由だ




最近新しい職場で馴染めない自分に直面していて

どこか諦めて思考停止に陥っている自分と

本当にここに溶け込む必要があるのだろうか?と思っている自分と

色々な感情を味わっている


いかに自意識が過剰か

そしていかに今まで自分を責めて生きてきたのか

緊張して生きてきたのか


改めて知った。




顔色を伺う必要も

自分を責める必要もない


こうしたほうがいいかな?って思うのも

本当ならする必要が無い



だってもう自分は自分で良いのだから。





いつも人の顔色を伺って

後ろばかり追いかけていた気がする


比べているから

自分が劣って見えて追いつかないとと焦る



自分が劣っていると考えることも無用だ。



優劣なんてきっと自分を劣っていると考える人が付けるレッテル




一人ひとりが本当に自分を大事にして
自分や相手を思いやることを知れば


もっと穏やかな世界が現れると思う


少なくとも当事者の目の前は平和になる




世界平和は個々の意識を変えていくことでしか実現できないんじゃないかな


そして消費を続ける限り続いていくと思う





最近、もう消費する生活にうんざりして

昔人が知恵を絞って編み出してきた知恵を学んで生活している

科学は先人たちの知恵を裏付けているに過ぎない


先人たちが肌で感じ想像し創造してきたものに
即物的な理屈が通じるだろうか?


そして先人たちに出来たことが
今の人に出来ないわけがないとも思う




消費すること
情報を収集すること
を経ったら

凄く自分の中がシンプルになっていく




本当に必要なものはきっと命が始まったときから知ってるんだろう




全てのものはリンクしてるんだから


自分が笑っていることで人が笑うなら私は道化にだってなるさ

(と最近思っている、笑われてもいいや、と)

・・・いや、なんだか知らないけど言葉のチョイスが人を笑わせる要素が多いみたいなんだけど(笑)





変わる必要なんて無くて


その人はその人のままでいい


そうやって居られたら

もっと世の中生き易くなるのになぁって思う





まだ私が小学生のころ
何故人は人を殺してはいけないのか
何故男は女を好きじゃなきゃいけないのか(セクシャルマイノリティーの問題ね)
とか色々考えてたっけ
結局はルールなんてなくて、ルールは人が作っていて
人を殺しちゃいけないのは悲しむ人がいるから、という結論に行き着いたけど


そういう話を今すると、大抵
「そんなこと考えてたの!?」と驚かれるのだが
私にとっては、考えないことの方が不思議なわけで



特殊・・・というか憎しみの多い家庭に育ったからかな?
そういった争いや憎しみについて考える機会は沢山あった



憎しみを許しに変えるのは大変だけれども


憎んでいるよりも
許したほうが自分のためにはなる
憎んでいる時間のなんともむなしいこと


時間は有限なのだ


私たちは死ぬのだ

ロボットじゃないんだから



死ぬということ
凄く素敵なシステムだと思う

有限だからこそ出来ることがある


私の周囲には死ぬことを異様に怖がる人が居るが


私は産まれて生きて死ぬというシステムは素晴らしいと思う


私のお葬式はお祝いにして欲しいくらいだ
(昔から何故葬式はあんなに暗いんだろうって思ってた)




最近凄く死というものが遠ざかっていて怖い

日本は特にそうなのかもしれない




自分の子供が産まれたらとりあえず
生き物は買いたい

自分の口にするものがどうやって育まれ犠牲になるかも教えたい
生かされていることを知ることはとても有意義だ



綺麗事だよと思っていた

人は1人じゃない
人は1人では生きていけない

という言葉



確かにそうだと思う




きっと愛情に飢えていて
今にも人を傷つけそうだったのは私で

実際に人を遠ざけて
寂しい思いをさせていたのかもしれない




もっと人に触れたいと思う





愛を知らないなら
愛を知らない辛さをもって愛を与えればいい


そう気づいたのは2年くらい前だったか





なんだか宗教のようだけれども

人の行きつく先、真理ってそういうもんなんだと思う



とても単純なこと

愛するということ



大丈夫だと伝えること






そして少し微笑んでいれば日常は幸せに溢れている。