人の音(性根)

ひとつひとつの描写を 感性込めて人の情念、
あるいは抒情に親しむことができなければ
真の景色は見えてこないだろう。そこに
何があるかなどわからないで通り過ぎてしまう。
目の前までの、またそこまでの充実感は
ある時、緊張がほぐれたときなど、ほっとして
目を向けた先に、なんの変哲もない極ありふれた
視界がそこに広がっていたとして、
その時にしか味わえないような瞬間的ななにかを
体験するときがある。
だれしもそれを望む訳ではないけれど、人によっては
随分と苦しんだり悲しんだりして探し求めて
いたものだったりする。
気が付けなければ次なるときまでやり過ごすが
良いかもしれないけれど、そこには味気ない
日々の悶々とした息づかいだけが残るだけだろう。
昔人のようにそういった感覚の鋭敏さを
少しずつ現代人は忘れ去られて来たものだと思う。
人の構造はまったく違わずに、何百年もの間
備わっているなにかを人は今、忘れようとしている。
どの物ごとに対しても、どんなことへの赴きに対しても
人のこころの成り立ちは同じものを得ようと
悩んだり悲しんだり苦しんだり、あるいは喜んだり
楽しんだり慈しみ合い、助け合いわかろうとして
互いに励まし合って今日に至っているのだと思う。
そういう人としての何たるを考える前に
自然に自らわき上がって来るその言葉にできない
何かを感じることで、昔人が思うその何かと
同じものを自らのその生い立ちを探り出して
いることに気が付くことができるものなのだ。
そこに気が付けば今在ることへの扱いに
変化を持つようになるだろう。
自身の授かった命の尊さとも言うべき
その訳も自分のいることの訳、さらには自分の生きる
意味までも見えてくることができる。
切欠が見つかる度に誰から言われるものではなく
自ずと理解し始めるだろう。
人として大切な物ごとの基本となるものであることを
そのことに対して誰が気付いているだろうか。
人から教わらなくても、ひとりひとりその者の
内なる宝庫に隠されていることが、その時初めて
気付くはずだ。
それは、人生のうちで一番大切な時期にわからず
一番必要としない人生の時期に知ることになるだろう。
しかし、自らが進んでそこに感性を働かせようとしたら
それは、だれでもがそこに立ち返ることができるだろう。
人としての意味を、祖先の代から受け継いだその
尊い理由を知ることができる。
希薄な人間性は、ますます現代社会に加速して行き
やがてはその感覚さえ鈍く変化してしまう。
花を見て何も感じないように。
結果重視の性質だけがいつもその方向に傾く。
過密した機械文明とでも言うべき便利さの
スピード感は、有り余る情報社会であったり
昔では困難だった移動手段の短縮だったり
手間をかけなければ解決できなかった
物ごとが機械の便利さで益々時間的便利さを
得て来ている。それもまた必要なことであるけれど
そういう加速して行く便利さは、あるいは
スピード感は今まで苦労しなければ到達でき
なかった物ごとに簡単な手段で辿り着くことが
できるようになり。また、時間を掛けなければ
できなかったことが人の手を介することなく
機械によってそれができるようになる。
そういった便利さを文明の進歩は目がくらむほど
速く進化している。
進化は便利さを生み出し、その便利さは人が
介入しなくても容易に処理することができるようになる。
そうしたスピード感がプロセス抜きの人間性を生み、
便利な社会ではあるけれど
それであるがための独特な麻痺状態が始まる。
ひとつひとつの物ごとに対しての感性など
ないがしろにされていく世の中に変貌して行くことになる。
ひとつの物ごと、たとえば風景を見て楽しむこころは
人の情緒となり得るけれど、そういう人の心の基本的な
物ごとの捉え方は、前段で述べたスピード感によって
失われようとしている。
人である以上、悲しみ苦しみ悲壮な面を誰しも持っているはず
それを聴いて笑うものがいたとしても、人であるとしたら
必ずそれは備えている部分であることは間違いないのだ。
そういった、人の弱い面は毎日のように経験していくもので
そういう場面に立つことを人は嫌う。
すこしでもそれを忘れられるような
回避の行動をとる、あるいは考えないでいようとする。
次から次とめまぐるしく思考して埋める。
常に集中し続けていられれば、充実感はもどり
回避の切欠になりえるものでもある。
しかし、それができない場合、悩みの渦に
引き込まれてしまうこともある。考えないことは
そのことの何の問題の解決になるものではない。
だから、だれしもそういった辛い面、そういう気持ちに
ならないように人は工夫する。けれど、そういった
物ごとの捉え方は、往々にして
感じない心を大量に生み出して行く。
感じなければ、
なにも苦しむ心も悲しむ心も必要ない訳で
その心こそが、便利に生きる現代社会が生み出して
いると仮定してもまったく違いないものだと思う。
苦しみを感じない心は、逆に感じないまでに
感じようと「試み」をする傾向になる。
それが進めば感じる為の強い刺激を求め出し
その刺激によって自らを慥かめようとする極端も出て来る。
自分の感覚の麻痺が進行することは、本来、人のことに
身を置いて思いやりやいたわり、そういったものから
はるかに遠ざかって行く。
そこにあるものは、自己中心で自分のことだけしか
考えられない性質を作り出す。それは、感性の低下からしたら
必然となる傾向にあるものだと思ってよい。
感性は鈍く、五感だけは鋭敏に成長し始める
その結果、手に触れるもの見るものその感覚に浸ることができるもの
あらゆるものに好奇心を抱き、そのもの事への執着が始まる。
その執着は、直情的であり激しいもので
それを常に求めようとする。
それは、ひとつの刺激であり、欲望の発端でもある。
それはさらに求めて止むことをとても嫌う。
常に感覚的刺激を求めて、それが加速して行くのを
だれしも経験してるのではないだろうか。
これは、隠しきれない人の業である。
さらに、加速すると過剰なまでの行動を
作ることもある。
この傾向は、まさに現代病となり得ることで
同じことを繰り返していることへの
感覚的麻痺を恐れるからで、それに気付かないでいるもの
はともかく気付いているものは、さらに進んでその方向へと
流れて行く。
まさに、そういった方向に進んで行くと
自分本位の考え方を常に正道と導いて
相手に対してではなく、自分に対して
いつも慥かめずには居られなくなるのもなのだ。
そこまで行ってしまうと欲望に歯止めは
掛けられなくなる。自分本位の考えから
抜けられなくなりむき出しに相手を
従わせたくなるようになる。
人の密集した場所に出向いて、凶器を振り回したりする事件が
時々あるけれど、それは、まさしく氷山の一角でその多くは
保てているものだと思う。しかしそういった現代社会の
独特な構造から、なり得る人の心の方向感覚を狂わしていることは
間違いないのだ。
ー玉章 by hiiragi樹ー





