縄文時代からの繋がり | カッサーラの街(珪素&ケイ素の街)

カッサーラの街(珪素&ケイ素の街)

美容と健康のCassa'ra。ここはカッサーラの使い方(基礎編・応用編)のコミュニティ広場です。

カッサーラ工房お問合せメールアドレス
kennyg1132@yahoo.co.jp

カッサーラの街にようこそ!(^^)

今朝の横浜は昨日に続き寒い朝です晴れ

昨夜は知人の歯科医師と夜7時から打合せ、その後新しい仲間が加わり夜9時過ぎから一杯やりましたビールお酒お店の中は忘年会真っ盛り叫び
いつも酔っ払って電車で寝過ごすため皆さんから近くのビジネスホテルに泊ったらと心配されましたが昨夜は無事帰宅出来ました! あしチョキ

さて暫らく前からカッサーラやガムケアスティック、ラッキーブリングなどケイ素をキッカケに何故カッサーラ仲間や読者の皆さんとご縁があり繋がるのか考えて参りました目
先月17日にパドメユキさんの高尾山ツアーに行ってから、やっとその答えが自分なりに浮かんできました!  ニコニコ
私の推測ですが皆さんとのご縁はケイ素をキッカケとした縄文時代から強い繋がりがあった方々と現世で再会しているのかもしれないと思い始めまたことです。
それは  ”縄文時代の同窓生”  ニコニコ

そのヒント・キッカケとなったラッキーブリング(勾玉ペンダント)
   ↓

(ラッキーブリングは勾玉をベースに平らにデザインしたケイ素のペンダントです)


<勾玉とは>Wikiより
(一部転載開始)
日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古い。 朝鮮半島へも伝播し、紀元前6世紀から3世紀初頭の無文土器時代にアマゾナイト製の勾玉が見られる[3]。縄文時代早期末から前期初頭に滑石や蝋石のものが出現し、縄文中期にはC字形の勾玉が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化する。縄文時代を通じて勾玉の大きさは、比較的小さかった。
中略
魏志倭人伝によれば、邪馬台国女王の臺與から魏への進貢品に「孔青大句珠二枚(穴が空いて曲がった青い大きな玉2個)」があり、ヒスイ製勾玉であろうと推測されている(進貢時期は248年-266年の間)。
古墳時代前期の古墳から硬玉ヒスイの勾玉が出土することが多い。大阪府和泉市和泉黄金塚古墳では、大小の勾玉が34個も見つかっている。この内にはヒスイの勾玉が26個が含まれている。古墳出土の勾玉の大きなもので3~4センチメートルであるが、1912年(明治45年)[元号要検証]発掘の大阪府堺市の塚周り古墳(大山古墳の陪墳か)出土の大勾玉は、長さ約6センチメートルである。
奈良時代には寺院の芯礎に納められたり、仏像の装飾に使用されることはあったが、あくまでも古来の伝世品で、新規に製作されたものではない。
日本本土では、現在まで神社等でお守りとして販売されているが、沖縄ではノロ(祝女)の祭具として使用され、現代もその伝統が受け継がれている。古琉球時代(14世紀 - 16世紀)の遺構からは、玉製以外にも金製や陶製の勾玉が出土している。
(一部転載終了)

<ラッキーブリングとは>
勾玉をベースとした平らなケイ素ペンダントです。名前は、Lucky(幸運)をBring(引き寄せる、持ち込む)して戴きたいと願う気持ちからネーミングしました。

<甦るラッキーブリング>
ラッキーブリングは使い捨ての製品では御座いません。使っているうちに鹿革の紐が緩んだり切れたりした場合、ラッキーブリング(勾玉ペンダント)だけをお送り戴きましたら新しい鹿革の紐で結び直しラッキーブリングを甦らせます。
但しその場合、往復送料、鹿革代、結び代合わせ実費として2千円をご負担戴きますm(--)m


浮き浮きわくわく愉快なカッサーラの旅はまだ始まったばかり。これからです!(^^)

<3分の手入れで左右の違い(透明感ある素肌に変化)>