江戸の歴史を知るには吉原遊廓は避けて通れない。江戸の文化風俗を語るには、歌舞伎や吉原の遊女を語らねばならない。いわゆる「吉原遊郭を知らずして、江戸を語ることなかれ」という言葉がある。その遊女たちの歴史は、女性そのものと貧富の差の歴史とともに連綿と続いている。

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その吉原遊郭の成り立ちは、古く遠くさかのぼることになる。遊女の起源は遠く奈良朝時代のこと。天平2年(7302月に大伴旅人卿が大納言を兼任するため筑紫(福岡)より京に上る道すがら、馬を水城というところに停めて住み馴れた家路を「さらば」と振り向かれた。

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旅人卿を見送る多くの人の中に、ひときわ目を引く遊女がいた。兒島という遊行女婦(うかれめ)が唯一人、悄然と涙を流して別れを見送っていた。その思いは自から歌となり、かの人に歌で伝えることが叶った。『おほならば かもかもせむを かしこみと 振りたき袖を 忍びたるかも』。

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並みの人ならばともかく、貴方は貴人ゆえに振りたい袖も振らずにこらえている心中を察して欲しいと詠んだ。すると去りゆく大納言も別れを惜しんで、『大和路の吉備の兒島を過ぎてゆかば 筑紫の兒島 おもぼえむかも』この遊女児島の歌とその返歌は、大伴旅人卿がおもな歌人編者である「万葉集」に記されている。当時はあちこちの宴席などに招かれて歌舞を演じていたので、遊行女婦と呼ばれていた。

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 文治元年(11853月に平家一門が春の花に逆らって散り行く樹の葉よりも果敢なく壇ノ浦の海底に没落したとき、源平の合戦に生き残った平家の女官達が、生活のために初めは花を売っていた。だがそれだけでは苦しく、やがて春をひさぐようになり、旅人などを相手に浮臥の苦しい勤めをしていたのを「上臈(じょうろう)様(高貴な女官)」と呼んでいたのであった。

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長い間身を売る暮らしをしているうちに、「臈」たけた美も失われ女郎さま「女郎」と呼ばれるようになった。はじめ花を売っていた事から、のちに娼妓芸者と遊ぶ際に手渡す代金を「花代」と呼ぶようになった由来であるといわれている。