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その人は私を呼んでいるようだった。白く霞む景色に顔はよく見えなかったが髪を振り乱して叫ぶ様子はとても必死だった。声は聞こえない。けれどこっちへおいで、とそう言われている気がした。
その人はその場を動けないみたいだった。だから私を呼んでいるのだ。私の方からそちらへ足を運ぶのを待っている。私の足はゆっくりと一歩踏み出した。呼ばれている先へ。
心臓がうるさいくらい高鳴っている。その人は私が近づけば近づく程、はやくはやくと急かすように腕を伸ばした。
そっちへいってはいけない
囁やく声が木霊する。
わかっている。けれど身体がいうことをきいてくれないの。
白い空気は少しずつはれて その人の姿を晒しだしていく。あと少しで手が届く、そんな距離なのに未だにその人の声は聞こえない。
そして彼女の白くか細い手に手を触れあわせた時、霞んだ視界の隅でとても幸せそうに笑う顔が私を捕らえて静かに囁いた。
" "
*
ガタンと大きく揺れた音ではっと目が覚めた。どうやら少しの間眠っていたらしい。窓に映る景色は先程までのぽつりぽつりと屋根の低い建物があり、畑がありといった情景と一変して薄く霧のかかった山道になっていた。
通り過ぎていく濡れた葉を重たそうに垂らしている木々達を横目に、ぼんやりと瞬きをする。寝ている間に固まったのか首が少し痛かった。
耳をすませば砂利道に負けじとスピードをあげる鋭いエンジンの音。私一人を乗せた小さなバスは生憎の悪天候をものともせずに順調に目的地までの順路を走り続けている。
はあと小さく溜め息をはく。この天気は正に今の私の心の中を現実に表したかのようだった。この先に待ち受けているであろう事を考えると憂鬱すぎて堪らなくなる。
"コ トリ"
ふと 耳慣れた声にそういえば私一人ではなかった、と今更ながら気がついた。彼女が私の傍から離れることは、まずありえないのに。
ついさっきだって夢のなかで会っていたはずなのに、彼女の声を聞くのはもう随分と久しぶりのように感じた。
" "
「うん」
" "
「大丈夫 私にはリコがいてくれるから」
私がそう言うとふわりと彼女が笑った気配がした。リコは、彼女は私の母であり姉であり親友でもある唯一無二の存在だ。
リコの声は私にしか聞こえない、そして私にも普段姿は見えないけれど彼女はよく私の夢を借りて出てきていた。それでも顔をはっきりと見たことはない。
彼女は私が知りたいということのほとんどに首を横に振るから。唯一教えてもらえたのはリコという名前だけだ。
しかし私は彼女との間に言い知れない 確かな絆を感じていた。彼女の存在を肯定するのに私にはそれだけで充分だった。
ふいに首からさげていた寂れた懐中時計に目をやる。
時刻は午後三時を少し過ぎたところだ。此の分だとあと一時間もしないうちに目的の停留所についてしまうだろう。
そこから今度は迎えの車に乗って、この山の更に奥へと進むことになる。はあと二度目の溜め息が零れた。無意識にコートのポケットを探っていた手はかさりと無機質な感触に触れる。
特に意識せずそれを取り出し広げて見ると、そこにはもう何度も何度も読み返したために既に見飽きた文字が並んでいた。
ー入寮案内書ー
内容は至って簡潔で、学園の説明から始まり、幾つかの決まり事とありきたりな挨拶とでしめくくられていた。
まるで赤札のようだと思った。同時にそんなに彼らは私を追い出したかったのか、と。
無意識に紙を握る手に力がこもる。その行為すら一度や二度ではないことをしわくちゃになった紙は証明していた。
" "
優しい声音に我にかえる。リコが心配しているみたいだ。駄目だな、私は。かっとなるとすぐ周りが見えなくなってしまう。普段感情的になることが少ないからその反動なのだろうか。気分を落ち着けるためにも一度瞼を伏せて思考を無にする。紙はポケットの中にしまった。
「ごめんね、ありがとう」
そっと私が呟くとリコはまた小さく笑ったようだった。



