第101回~第105回(P239-352)
僕が小学生の時に読んだ唯一の小説が吉川英治の「三国志」だった。
蜀の英雄たちの活躍に心が躍った。
中でも、僕が一番好きだったのは、諸葛亮だ。
政略においても、戦闘においても、神のような智謀を発揮し、国を興し、味方を勝利に導く姿は、あこがれの対象だった。
自分がどういう人間になりたいかって聞かれたら、頭がよくなりたい、というのは昔から今にいたるまで一貫している。
いい年して、頭がよくなりたい、なんてちょっと恥ずかしい気もするのだが、頭がよくなりたい、は諸葛亮の活躍を抽象化した表現に他ならない。
実に30年以上、諸葛亮は僕の心をとらえているのだ。
さて。
「三国志演義」は今回はじめての読書である。
しかし、少年時代に読んだ吉川「三国志」の再読のような気分でもあり、吉川「三国志」のふるさとを訪ねるような思いでもあった。
期待して読みはじめたのだが、あんなに夢中になって読んだ物語はすっかり色あせてしまった。
そんな「三国志演義」の中で、一番魅力を感じなかったのが、実は諸葛亮だった。
これは「三国志演義」自体の読み物としての浅さが、大人になった僕にとって耐えられないものだったことが一番の理由だろう。
あのシーンもこのシーンも、もちろん知っている三国志の世界の話なのに、どれもこれもがっかりポイント。
その中でも、諸葛亮の北伐が一番の魅せどころだったはずだ。
自分を見出してくれた先帝劉備の遺志に応えるため、漢王朝再興の旗を掲げて北伐の軍を起こす。
宿敵司馬懿との死闘の果てに、志半ばにして病に倒れ、帰らぬ人となる。
その無念の心中を思うと、涙なしには読めない場面である。
歴史的事実でもあるから書くが、小説であることを考えるとネタバレにあたることを書く。
まさに物語の第104回で諸葛亮は死ぬのだ。
「諸葛亮は精神の動揺を自覚するようになり、そのため諸将はあえて進撃しようとしなかった」(P303)
と、突然病みはじめて、あっけなく死んでしまう。
死に際して、星が落ちただの、諸葛亮の遺した秘策だの、ごてごてにエピソードで飾り立てているけれども、チープ過ぎて読んでいられない。この中には、少年時代の僕が諸葛亮にあこがれを抱くようなエピソードも含まれているが、しょうがないね。大人になったんだ。
「三国志演義」は第120回まであるから、まだかなりの分量残っているが、吉川「三国志」では「原書『三国志演義』も、孔明(諸葛亮)の死にいたると、どうしても一応、終局の感じがするし、また三国争覇そのものも、万事休む――の観なきを得ない。おそらくは読者諸氏もそうであろうが、訳者もまた、孔明の死後となると、とみに筆を呵す興味も気力も稀薄となるのを如何いかんともし難い。これは読者と筆者たるを問わず古来から三国志にたいする一般的な通念のようでもある」(青空文庫より)と言ってさっさと筆を置いてしまう。
ここからさらにつまらなくなるよ、というのは嫌なお知らせだが、僕は最後まで読む。
長きにわたって感想を書き綴ってきた「三国志演義」だが、もうしばらくお付き合いいただきたい。