P185-246終
途中が数多くはしょられて(火にくべられて)、第二部の結論というべき章が不意に現れた。
しかも、最後まで書かれなかった(火にくべられてしまった)、そういう第二部である。
神とともに生きる喜びを登場人物に語らせる。
不正が横行する役人たちに、国家のための愛を説かせる。
ゴーゴリは、愛するロシアの行く末を遥か遠く見出そうとしていたのだろうか。
なぜ、完成したはずの第二部は、ゴーゴリ自身の手によって火にくべられてしまったのだろうか。
それは僕にはわかるはずもない。
しかし、一つ言いたいのは、人間の姿を描くことに関しては天才的だった作家も、それが社会という機構の、それも進むべき道を説く段になると、まったく青くさい議論に成り下がるような気がするのだ。
もし、作品が完成していたとしても、ゴーゴリは実はどこにもたどり着けなかったような気がしている。
もちろん、作品自体は面白いのだから、憂国のロシア論などというものを突き詰めなくても、物語をもっと読みたかった、という気持ちはある。
しかし、ゴーゴリの主張という意味では、未完成の第二部でも、読む側としては、これで十分だったのではないかという奇妙な満足感もある。
ロシアには、トルストイ、ドストエフスキーという、偉大な作家が産まれる土壌がある。
文学だけにとどまらず、国の形の変革に及び、人類史上の壮大な実験と言われた、社会主義が産まれた大地でもある。
「死せる魂」は、そういう、偉大な国民が産んだロシア文学をこれから読む際に、道しるべとなる作品となるのかもしれない。
読んでよかったと思う。