デフォー「ロビンソン・クルーソー」1-3 | 世界文学登攀行

世界文学登攀行

世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。

 

P201-310


個人的には「ロビンソン・クルーソー」は、リアルなドキュメンタリーではなくて、極めて寓意的な物語であるように思う。
なので、いちいち登場人物に感情移入する必要もないのだが、語りが非常にうまいので、絶海の孤島に長い間ひとりぼっちで生活している主人公のことを思うと、つい考え込んでしまい、ページがめくれなかった。
読みやすいし、面白いのに、読めない。
こんなこともあるんだなあと思う。


孤独の中で主人公は、自分を相手に対話をする。
神を相手に対話をする(もちろん相手からの返事はないけれど)
社会から切り離されるという、人間の弱さが露呈する極限状態の設定の中で、信仰によって、神を信じることによって、何がもたらされるのか。そもそも意味のある行為なのか。読んでいて鋭い刃物を喉元に突きつけられるような、苦しさもある。
主人公は、神を恨み、神を呪いながらも、日々の生活の中で様々なことを見出し、感謝をするようになる。そして、神の摂理を信じる。聖書をひもときながら、時には雷鳴のような啓示を受ける。
日々が神との対話である。
ロビンソン・クルーソーの宗教観は、彼が直面する現実の絶望と希望の間を揺れ動く中で、一つの膨らみを持ちはじめている。


ちょっと話しは変わるけれど、一つ面白いなと思ったエピソード。
ロビンソン・クルーソーは、スペインがアメリカ大陸から原住民を虐殺し、追い出したことについて以下のように述べている。
「人間のなす業とも思えない血なまぐさい残虐行為であるとして、極度の嫌悪の情をもって語られている。この行為あるために、スペイン人といえば、人間の、またキリスト教の愛のなにものたるかをわきまえたすべての人々にとってはただちに恐るべき残虐な人間を意味するにいたったのである」(P301)
ヨーロッパの人々が、アメリカ大陸から原住民を追い払ったことは、彼らにとっては正しいできごとと信じきっているとばかり思っていた。
もちろん「ロビンソン・クルーソー」はイギリス人の作品だから、ヨーロッパの中でもいろんな感情があるとは思うけれど。
こういう一文を読むと、ここには生きた歴史があるんだなあと思わざるをえない。古典文学をひもとく喜びの一つである。