世界文学登攀行

世界文学登攀行

世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。


近代日本の対中国感情
――なぜ民衆は嫌悪していったか

冒頭、次のような問いかけがある。
「近代日本でなぜ戦争が起こったのか」(「はじめに」Pⅰ)

著者は、要因の一つとして、戦前の日本社会で共有されていた支配的な民衆感情の存在をあげる。
具体的には、当時、日本の戦争は、多くの日本人が賛同していたものであり、その認識を支えていたのが、日本社会で漠然と共有されていた民衆の対外感情だったという。

様々な国に対する対外感情の中でも、本書は、日清戦争・北清事変・対華21ヵ条の要求・満州事変・日中戦争などに象徴されるように、近現代を通して対立し続けてきた中国に着目する。

本書の特徴は3つある。
①従来の中国観研究が対象にしてきた知識人層ではなく民衆の対中感情に着目する。
②それぞれの時代で発行部数が多いなど最も有力な少年雑誌を選定し、挿絵や漫画、写真といったビジュアル表現に着目する。
③明治・大正・昭和戦前期という長期間にわたる一般民衆の対中感情の包括的把握を行う。

なお、タイトルに「中国観」ではなく「対中国感情」という言葉を使っているのも、「思想ではなく感情に着目」(P203)しているためである。
このことも、本書を理解する上で重要な視点だと思う。

本書の概略を説明した上で感想を書くが、めちゃくちゃ面白かった。
子ども向け娯楽メディアである少年雑誌の表現は、それそのものが日本国家の意志を示すものではないかもしれない。
しかし、子どもにそういうものを読ませ、子どもはその内容から思想を形成することを考えれば、少年雑誌の表現から、その時代の共通した空気のようなものを感じ取ることができる。

近代日本が初めて経験した対外戦争である日清戦争では、敵愾心から、戦争相手である中国人を「豚」呼ばわりし、「臆病」「弱い」「吝嗇(りんしょく」「卑怯」など、徹底的に蔑んでいる。
戦争が終わったあとは、そうしたあからさまな蔑視表現は見られなくなったが、今度は中国人を「悪人」として、あるいは「滑稽」な存在として物語に登場させ、ネガティブに描かれた。
その後も中国との様々な利害関係を反映して、多面的に中国人に対するイメージが表現されてきたという。
ある時は、中国の発言・行動を、「一等国」たる日本から見て「生意気」「こざかしい」と評し、日本の優越を表現する。
またある時は、中国との友好を結ぶ必要性から、国家から雑誌の発行者に対して、中国人を滑稽に描くこと、敵愾心を煽る目的で侮辱することが禁止されたという複雑な事情も垣間見える。
その中で、特に印象深かったのが、日本人には昔からずっと(戦争を経ても変わらず)、近代中国は馬鹿にするが、古典文学に描かれたかつての中国には尊敬を払うという、中国に対する矛盾したような感情があり、雑誌に掲載される作品でも、近代中国人と古典作品に登場する中国人は明確に区別された表現がされる。
その結果、古典中国から学び、偉大な国を作りあげた日本人が、その恩を返すために、三流国になりさがった近代の中国を、あの頃の偉大な中国に引き上げてやるのだ、という発想もあったようである。
雑誌の表現を読み解いていくことで、時代の底流をなす思想まで見えてくるのは、とても興味深かった。

昔から、戦争をした国、特に負けた国は、その責任を指導者層にのみ課し、国民はだまされたかのような被害者を装う言動があることにずっと違和感があった。
もちろん、言論や表現が国家に規制されている場合もあり、だれの責任なのか、という議論は難しい部分もあるのだろうが、対外戦争を行っていた当時の日本は、国民も盛り上がっていたんだろうなという空気がとても伝わってきた。そのことを史料を通して肌感覚で理解できたことが有意義であった。

最後に、いくつか覚えておきたい言葉を書き抜いて終わりにしたい。

「愛国心の強さは現在でもポジティブなものとして捉えられることが多いが、それは自国以外の国に対する蔑視や優越感と分かちがたく結びついている。国際社会で生きるうえでは、そのことに自覚的である必要がある」(P24ー25)

「過去を正確に把握し、よりよい未来を展望することこそ、歴史学の重要な役割である。近代日本の負の側面を直視することは、今後のよりよい日中関係を考えるうえでも必要不可欠な作業となるはずだ」(P200)

 

 

1巻は、山本伸一が創価学会の会長に就任してから5ヶ月後。
1960年10月2日から10月25日までの約3週間、アメリカ、カナダ、ブラジルの3ヶ国9都市の訪問が描かれる。

その旅は、日本から遠く離れた異国で、頼る人もなく、悩みを抱えながら必死に信仰に励む、名もなき壮年、婦人への激励に貫かれている。
一人ひとりの境遇が異なるように、激励も様々である。
その中には、僕の胸に響くような言葉がたくさんあって、気づけば、たくさんの付箋を貼っていた。

その言葉だけを羅列したら、名言集のような書物になるのかもしれないが、物語に描かれるのは生きた人間である。
山本伸一の友を思う強い一念と、師を慕う会員との魂の交流を感じるから、言葉以上のものを感じ取れるのだと思う。
日々の生活の苦闘の中で、僕も「新・人間革命」に支えられて生きてきた。
偉大な書物だと思う。

さらに、世界への雄飛をきっかけに、日本の宗教であった創価学会の信仰が、より人間に根差した普遍性を獲得する過程の物語と読みとることもできる。
どんな宗教であれ、信仰の本義とは無関係なはずの、ある時点での文化というものをまるごと包含してしてしまうところがあると思う。
それは、創価学会だって例外ではない。
今、自分にとって必要な信仰とは何か。様々なことを考える。

最後に、たくさん貼った付箋の中から、いくつか書き抜きをして終わりにしたい。

1つ目。
「一言の激励で、人生が大きく開けることがある。ゆえに伸一は、一瞬の出会いを大切にし、心から友を励ますことを常に心がけてきた」(P142ー143)
運命的な一瞬というものがある。大切なのはかけた時間の長さではないということを改めて思う。

2つ目。
「仏法というのは、最高の道理なんです。ゆえに、信心の強盛さは、人一倍、研究し、工夫し、努力する姿となって表れなければなりません。そして、その挑戦のエネルギーを湧き出させる源泉が真剣な唱題です。それも“誓願”の唱題でなければならない」(P294)
信仰というのは何かにすがってラッキーを願うことではない。すべての可能性は自分の中にあると信じて、それを引き出す力なのだと思う。

3つ目。北海道の開拓者・依田勉三の歌を引いて。
「ますらをが 心定めし 北の海 風吹かば吹け 浪立たば立て」(P309)
仕事で、会社と困難な交渉をしなければいけなくなり、こういうことを言われなければよいが、こういう対応をされなければよいが、と非常にナーバスになっていた時に目にした言葉。相手がどうあれ、風吹かば吹け、浪立たば立て!の強い気持ちで臨むことができた。仕事の結果もよかったのだが、それ以上に、自分の人生や、仕事に対して、相手の顔色を見るような弱々しい姿勢ではなく、これからも、何が起きても動じないという強い気持ちで臨まなければいけないと思った。
 

 

 

「8 ライストリュゴネス族」(P369-450)

ついに1冊読み終わった。
いやこれは大変な読書だった。

ネタバレもなにもないような小説だけど、そもそも読む人もそんなにいないと思うので、どんな話か書いてみる。
基本的にカメラはずっと主人公にフォーカスされているんだけど、一人称小説でもないし、三人称で追いかけ続けているわけでもない。
なんていえばいいんだろう。カメラは主人公の周りや頭の中をぐるぐる動きながら、物語は進む。

普通、物語の主人公なんていうと、他の人とは違う資質をもっていたり、胸躍る冒険譚を読者は期待すると思う。
1巻を読み終わったから振り返って考えてみたんだけど、この主人公、本当にどこにでもいるおじさんなんだよね。
何の変哲もない主人公が、ごくありふれた日常を送っているだけ。そして、延々とその描写が続いているの。

女性を見れば、卑猥な発想をするし、聖職者を見れば偽善者めと言わんばかりに心の中で悪態をつく。
用事をすませたり、仕事をしながら、見るもの聞くものからとりとめのない連想をはじめるのだけど、主人公には心配ごとがあるようで、ふとまたそのことを思い出して嫌な気分になったりする。

「ユリシーズ」の主人公の生活って、ほんと、どこにでもある生活なんだよね。
それなのに、主人公がくるくると感情が揺れ動くさまから、生活感に近い感情の変化を感じることができるし、なんていえばいいのかな、生きているというだけで、薄っぺらいものじゃないんだなという実感がわいてくる。
凡庸な生活には、誰にでも当てはまる普遍性がある、と言い換えてもいいものかもしれない。

こんな題材が、面白くなるわけがないし、そもそも小説として成立しないと思うんだよね。
それをさ、描き切ってしまう、小説の中に再現させてしまうというのが、ジョイスが追求した表現の可能性なんだろうね。
「ユリシーズ」はなにがすごいんだかわからないけど、なんかすごいのである。

こちら、短編集1短編集2を読了済である。

エピソード0としての短編集が終わり、やっと本編がはじまった。
そう意気込んで読んでいるわけではないのだが、集中できないけど本は読みたいという時に、コツコツと読みためている。
1冊読むのに2ヶ月かかっているが、悪いペースではないと思っている。

すっごく面白いかと言われるとそうでもないのだけど、ずっと読んでいられるというのはある。

「ウィッチャー」シリーズは、ファンタジーである。
本編Ⅰには「エルフの血脈」というサブタイトルがついていることでもわかるように、人間と、非人間族が入り混じる世界の物語である。

こういうファンタジーものというのは、すごく難しいと思っている。
ともすると、ファンタジー小説に仮託したものすごく現実的な物語もあって、そういうものを読むと、じゃあややこしい設定を作らずに普通に書いてくれよと思う。
また、ファンタジーによりすぎると、小説世界そのものに入っていけずに、置いてきぼりをくらうということもある。
しかも、科学の進歩した現代において、ファンタジーそのものが成立するのかというのも疑問である。だいたいのことは魔法のような架空の力を借りなくても、道具や技術の力を使えばできてしまうからだ。

そういう、ファンタジー小説が成立しにくい難しさの中で、途中でばかばかしくならずに読んでいられるというのが、実は結構すごいことだと思う。
おそらくヨーロッパの伝承(「ウィッチャー」シリーズはポーランドの作品)のような分厚い土壌があって、成立してそうな世界が構築されているのだ。

また、読めていることの要因としては、本編に先立って短編集2巻を読んでいるため、予備知識が頭に入っていることもあるかもしれない。
それから、短編集を読んでいる時は、物語と物語の間で一度話しが切れてしまうので、物語ごとに世界観を把握し直すことがとても大変だったが、本編に入ってからは、長編というストーリーの流れがあるので小説の中で世界観が途切れることなく緩やかに構築されていくという安心感もあるのかもしれない。

今、自分に課している読書というのは、専門知識や、幅広い知識の習得のためであり、緊張感をもって行っている読書だと自認している。
その中で、付箋を一つも貼らないような、本と対峙しないような読書のひと時もあっていいものだと思う。読書は娯楽でもあり、楽しいものだからだ。
先は長い。最後まで読むか読まないか、それすら特に考えていないが、手元にある2巻は、さっそく読みはじめた。

 

 

 

「人間革命」に続き「新・人間革命」を読む。

「『人間革命』は、創価学会の精神の正史である」(「人間革命」1巻「文庫版発刊にあたって」)という性質の書物であり、著者である池田大作は、生前、創価学会の名誉会長であった人である。

なぜ僕がこの本を読むかと言えば、僕が創価学会の会員だからである。
尊敬する池田先生が書いた「人間革命」「新・人間革命」は日常の読書にぜひとも含めたい本なのである。

とは言え、このブログは、あくまで読書ブログである。
創価学会という実在の組織について何かを書きたいわけではないし、ましてや何かを伝えたいわけでもない。
あくまでも、読書の一環で、読んだ本の感想を書くに過ぎないことは、念のため明言しておく。

特定の宗教に関する本の読書であるから、特定の信念に基づく主張に偏った記事もあるかもしれない。
ただ、僕のブログ記事を書くスタンスは上記の通りである。

「人間革命」は戸田城聖を主人公とした物語であった。
「新・人間革命」はその弟子である山本伸一を主人公とする物語である。

「新・人間革命」は全部で31巻という長大な物語である。
前回は完結前であったため、2016年6月までに刊行されたものを読み、それから発刊の都度読み、最後に読み終わったのは2018年12月のことであった。
今回は31巻すべてを通して読み切ることを目標にしたい。できれば、途中で長期中断などがないといい。

ともあれ、他の本と同様、読んで思ったことを、素直な気持ちで綴っていけたらと思っている。