世界文学登攀行

世界文学登攀行

世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。


年に1度は妻と1泊2日の旅行をすることにしている。

僕の東京暮らしが長かったので、地方に越してきた今となっては、家から車で1時間も行けば、もう観光気分を味わえる。
今回は、三重県南部の紀北町というところを起点にした旅行になった。

旅行とは縁のない生活を送っていた僕にとっては、どこに行きたい、何をしたい、ということが全然決められず、ほとんどが妻の提案待ちなのだが、1つだけリクエストしたのが、斎宮歴史博物館の訪問だ。
中公新書から発刊されている「斎宮」を数年前に読んで、興味を持っていたからだ。

伊勢神宮に仕えた皇女斎王の宮殿、それが斎宮である。
妻はまったく興味を示さなかったが、自分が興味を持つことがない場所だから、逆に行ってみたいと言ってくれた。

とはいうものの、斎宮歴史博物館、妻が楽しんでくれるか、少し心配だった。
僕は、本で得た知識も借りて展示物を眺めていたのだけれど、妻は斎宮の出土品に興味を持ったようだった。


映像による展示もやっていて、「斎王群行」という斎王が都から伊勢へと向かう旅を、史実を元にしたドラマ形式で再現したものが上映されていた。
映像に出てきた斎王は当時9歳。
もう二度と会うことはない父に別れを告げる斎王は、なんだか義理の姪に雰囲気が似ていて感情移入する。
都から伊勢までの5泊6日の強行軍。
4日目の宿泊先である鈴鹿頓宮に一行が着いたのに、連絡がうまくいっていなかったのか、何の準備もされていなくて、旅の一行ががっかりしたというエピソードが紹介されていた。
鈴鹿市出身の妻が、鈴鹿頓宮は何をやっているんだと憤っていたのが印象的だった。

斎宮歴史博物館の話をしようと書いているのに、書き終わった文章を読み返してみると、妻の反応ばかり書いた記事になっている。
旅行先で、様々な景色や、事物に触れながら、妻ばかり見ていたんだなと、我がことながらほほえましく思う。

写真も何も撮っていなかったので、現地での様子を思い出すためになおちんさんのブログを参考にさせてもらったけれど、記事を読みながら完全に思い出が蘇ってきて、もう一回行ったような気分になった。特に「斎王群行(都を出る斎王)」の写真を見ながら、当時の雰囲気が精巧に再現されていて、現地でも飽きずにずっと眺めていたことを思い出した。

妻のことばかり見ていたように書いたけれど、僕もしっかり楽しんでいたのだった。

P401-480

ありえない設定のありえない話。
それなのに、自分の中の何かが共鳴して、ばしんばしんと音を立てる。

今読んでいるところは、オルガという女性の一家の受難の話。

オルガの魂の叫び。
まるまる全部、理解できない話なのに、現実にある何かの事象よりも、より深く迫ってきた。

虚構という形態を取らないと表現できない何かなのかもしれない。
これは、このように語られなければならない物語なのかもしれない。
そんな気分で読んでいた。

理屈も分析もこの本を語るには役に立たない。
圧倒的な体感だけが、我が身を貫いている。

世界の通史を学ぶという意味で、定期的に読み返そうと思っているのが、河合塾の青木裕司先生の世界史実況中継だ。
全4冊の読みやすい講義録だから、年に1回くらいはと思っているのだが、他に読むべき本もあったりして、なかなか読み返せていない。

そうこうしているうちに、高校世界史の課程の「世界史B」が「世界史探究」に変わったらしくて、この講義録も「青木 世界史探究授業の実況中継」と装いも新たに発刊されることになった。
約8年ぶりの改訂というわけで、さっそくアマゾンで購入し、読みはじめている。

1巻ももうすぐ読み終わるというところで、そろそろ感想を書く準備をしようと思っていたところ、大変なことに気づいたのである。
なぜ、そういうことになったのかわからないのだが、新しい「世界史探究授業の実況中継」ではなく、古い方の「世界史B講義の実況中継」をせっせと読んでいたのであった。

1巻の途中まで読んだものは、残念だけれどいったんリセットをして、新しい方をまた最初から読んでいきたいと思う。
期せずして、新版と旧版の読み比べみたいになってしまうけれど、それも一つの学びという気持ちで読んでいきたい。

中公新書などで、ピンポイントで深堀りしたような歴史の事象が、もう一度、世界史全体の流れの中に還元されていくのは、知的欲求が満たされていくようである。
大学受験をするわけでもないから、気楽な気持ちで、学ぶ喜びを味わいたいと思う。

P301-400

物語の内容と言えば、主人公Kと、彼を取り巻く人々との会話にすぎない。
それなのに、すごい迫力。圧倒的なリアリティ。
カフカという作家の剛腕にねじふせられてしまっている。

小説の場の設定が歪んでいるのに、この説得力はどうやって生まれてくるのだろう。
今まで体験したことのない不思議な読書感覚におぼれている。

「城」に関してはあと200ページ以上くらいあり、しかも未完の作品である。
1冊読み終わるまで、今と同じような感覚で読み続け、特別な読後感というものはないかもしれない。

でも、読書って、最後まで読み終わらないと見えないものもあるかもしれないけれど、最後までたどり着けなくてもよいような読書もあるのかもしれない。
「城」を読みながら、こうして感想を書くときに振り返ってみて、そんなことを考えている。

NPOとは何か
――災害ボランティア、地域の居場所から気候変動対策まで

NPOは「Nonprofit Organization」の略で、「民間非営利組織」と訳される」
似た言葉に「Nongovernmental Organization」日本語では民間非政府組織を意味する「NGO」があるが、NPOとNGOの境界は曖昧であり、本書で「NPO」の語を用いているが、そこにはNGOも含んでいる。

「非営利にせよ非政府にせよ、『非ず』という名を背負い、××ではない組織群を、まとめて〇〇の組織だと説明するのは大変なことです」(P243)と著者が書いているように、NPOとは何か、を総括的にイメージすることはとても難しいようだ。
また、NPO概念の、学術的な定義、社会的な定義、法制度的な定義が指し示すものがそれぞれ異なるため、「学者がNPOと言った際、それが具体的に何をさすのかを明示しないと議論が嚙み合わないことすらある」(P43)という。

さて、本書はまるごとNPOについての説明であり、自分の知らなかった世界でもあり、知らずに接していた世界でもあり、各章はなるほどなあと思いながら興味深く読むことができたのだが、一冊読み終わって、自分の知識として定着させるために、自分なりの「NPOとは何か」をまとめていきたいと思う。

スウェーデンの政治学者ビクター・ペストフの整理では「公的-私的」「公式-非公式」「営利-非営利」の3つの分類軸を用いて、「公的・公式・非営利」である国家、「私的・公式・営利」である市場、「私的・非公式・非営利」であるコミュニティ(世帯・家族など)を描き、それらと異なる存在としてNPOを位置づけている。(P217ー218趣旨)
また「NPOには、慈善や奉仕といったイメージがつきまとうが、企業や政府と同様に『サービスを供給する組織』との理解が重要」(P55)である。

そのNPOは事業体としてサービスを供給する顔の他に、運動体として社会全体に働きかける顔をもっており、その二つの顔は程度の差こそあれ、実際の活動では互いにつながっていることが多い。
このようなNPOという組織は、活動や事業を遂行する協働システムであるとともに、そこにかかわること自体が参加者にとっての態度表明や、安寧を得られる居場所としての意味を持つ。
「いわば、活動を『する』ことの意味だけでなく、組織に『いる』ことの意味が大きい」(P68)

NPOは、市場にも政府にも手をつけられていない社会問題に対して果敢に取り組んでいるわけだが、その活動には事業性と運動性の二つの顔があり、複数の利害関係者の参加があり、組織とコミュニティが相互浸透する、それらの要因がNPOの複雑さにつながっている。この複雑さは、組織運営の難しさにつながっていくわけだが、企業のように業績や株価といった明確な指標もないことが、このことをより一層難しくしているという。

近年、家族のあり方が多様化し、地域の近隣関係が稀薄になり、雇用が流動化するなかで、社会と個をつなぐ「中間集団」の機能喪失によって人は帰属し支え合う場を見失いつつある。こうした中で、NPOは「誰かのための組織」であると同時に「わたしたちのための組織」であり、弱い組織であるNPOが重層的に分厚い中間集団を形成するのであれば、その社会はしなやかで強いものとなるだろう、著者は未来への展望とNPOへの期待を表明し、本書は結ばれている。

最後に、日本は「NPO」という語が導入される以前から、ボランティア、奉仕の精神というものはよく知っているという国民であったそうだ。
しかし「戦前の町内会は、行政の末端組織および住民統制としての役割が期待されるようになっていく。ここでは、近隣の助け合い精神とされた『隣保共同』が全体主義的な翼賛体制に組み込まれ、『非国民』の監視通報の役割を担うようになる。
 このように、世間への『奉仕』とされた諸活動は、総動員体制のスローガン『滅私奉公』と接合することで、全体主義的な意味での国への奉仕へと容易く転化し得ること、そうでなければ弾圧の対象となることは、強調して指摘しておかなければならないことだろう」(P164)とあり、全国民をあげて戦争協力へと傾いていった国民性の一端について、興味深い見解であると思った。