世界文学登攀行

世界文学登攀行

世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。


EY新日本有限責任監査法人
電力・ユーティリティセクター 編

お仕事本。
以前、電力・ガス業界の入門書のような本を読んだけれど、今回はより専門家用の本。

「会計シリーズ」とタイトルにもあるように、もちろん会計に関する本なのだが、本書のかなりの部分は、電気事業そのものに紙幅を割いている。
電気事業者は、電気事業会計規則が適用されることがあり、電気事業特有の会計処理が使用されるのだが、実は、会計に関する考え方は、一般的な会計の原則で理解可能な部分がほとんどである。
会計とは、企業の様々な活動を、会計というビジネス言語に翻訳することととらえるならば、電気事業を深く理解したことで、一般的な会計ルールの枠内で会計処理を理解することができ、大変有益な勉強になった。

何点か、覚えておきたいことを箇条書きに。

1つ目。
「電気は、生産と消費が同時に行われるという特徴を有している」(P76ー77)が、卸電力市場(JEPX)や、電力先物市場が整備されたことで、電気をあたかも通常の商製品のように考えることができるようになったと思う。
会計処理を考える際は、あまり身構える必要がないと思った。

2つ目。
電気事業の2つの特性は「公益事業であること」と「設備産業であること」(P75)

3つ目。
本書では、電子力発電に多くのページを取っている。
福島第一原発事故以来、原子力は発電効率はいいけど、なんなとなく怖いというイメージがあった。
記述を読んで、原子力発電そのものをとてもよく理解できた。
覚えておきたいことでもないし、今回勉強した目的とは少し離れた論点になるのだが、イメージではなく、事実を確認することの重要性を感じたので、最後に記しおきたい。

 

 

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高校生が学ぶ「世界史探究」課程の本。
つまり、大学受験用の参考書である。

受験勉強のよいところは、短期間に、大量の情報を、効率的に摂取できるところである。
従ってこの本はさしずめ、世界の歴史の大ダイジェストとでも言うべきか。
文字に残すことができた人類の歴史が、すべてここに詰まっていると言っても過言ではないように思う。
受験参考書に対して感想も何もなさそうなものだけど、学ぶということ自体が刺激に満ちていて、とても楽しいものなのだということを改めて実感した。

この「世界史探究」の実況中継は、かつて「世界史B」という課程だった25年以上前にお世話になっていた本である。
著者は青木先生で同じ人だが、教科書の記述が変わっているようで、僕が知っている世界史の内容から大きく変わっているところもあるようである。
僕がかつて現役だったのは遠い昔のことであり厳密な比較はできないのだが、特に感じたのは、かつては世界史と一口にいっても、どちらかというと欧米の人から見た世界史、という趣きがあったように思える。それが、世界の各地、各国、各民族の歴史に配慮された、世界から見た世界史、つまりは「欧米の人から見た」という偏りのない世界史になりつつあるようだ。

例えば、ヨーロッパ人が七つの海に乗り出していった「大航海時代」と呼ばれた時代。
これは、あくまでヨーロッパからの視点にすぎないということで、世界史探究の教科書では「大航海時代」という呼称は章の表題からは消えてしまったそうだ。
本書でも「要するにね、豊かなアジアでは昔から交易をやっていたわけです。そこに、やっと16世紀になって、ずーっと貧しかったヨーロッパが、参入してきたのです。これが(中略)ヨーロッパが言うところの『大航海時代』の実態なのです」(P162)
新しいことを学び続けないと、知識が古びていくだけじゃなくて、考え方の枠組みすら、古びていくことが怖いなと思ったよ。

あといくつか本書に出てきたことで、印象に残ったものを。
ここで書くと、忘れないからね。

一つ目は、僕の大好きなモンゴル帝国のこと。
初代君主のチンギス=カンから始まったモンゴル帝国(支配した中国の国名は元)。
その広大な領域のモンゴル支配がもたらしたものがなんだったかというと、東西交易路をまったく安全なものに変えたということ。
これによって多くの人々の往来があり、物資の交易があり、商業が活発化したという。
その結果、都市がますます発展し、庶民が台頭し、庶民文化が栄えたという結果をもたらした。
僕は、古典文学の読破というものを志しているから、中国の古典文学「三国志演義」「西遊記」「水滸伝」の原型が元の時代にできたということは知っていた。
圧倒的な武力を持つモンゴル人支配の下で、なんでこういう文学作品の基礎ができたのか疑問に思っていたのだが、何のことはない、モンゴル人支配の果実として、都市が隆盛し、民衆文学が勃興したのだということを知った。
ちなみに余談だが、昔学んだ、モンゴル人がほかの民族を差別したとする「モンゴル人第一主義」という言葉は近年見直しがなされているのだそうだ。モンゴル人は支配者として君臨はしたが、他の民族の宗教の弾圧などしなかったし、人材登用の面でも、言語・民族・宗教・出自などにかかわらない実力本位で登用したのだそう。「支配層に加わったものはすべて”モンゴル”と総称された」と記される教科書もあるとのことである。

二つ目は「経済」のこと。
そもそも「経済」って何?
講義の説明では「これは人間が生きるために必要なもの(生活物資)を手に入れるために行うところの、”つくる→運ぶ(分配する)→消費する”という一連の過程」(P38)を言うのだそう。
複雑な現代経済社会の中に生きる僕たち現代人にとって、かえって本質を見失ってしまいそうだが、こういう単純化した理解も重要なことなのだろうと思う。
切り口さえもっていれば、身の回りのいろんな複雑な事象がすっきりと見えてくるのではないかと思った。

ともあれ、2巻までで、17~18世紀くらいまでやってきた。全4巻の半分。
ここから現代につながる歴史の展開が楽しみでしかたがない。

 

 

 

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4月から東京で生活しています。
妻を置いて出てきたので、週末は自宅に帰る渡り鳥のように生活する予定です。

そんな事情なので引っ越しもゆるゆるとしていたのですが、さすがにベッドしかない部屋では何もする気がおきないので、必要なものは自宅から送ることにしました。

一番悩んだのは本棚。
いろいろ考えた結果、2つある本棚のうち、1つは東京に持って行くことにしました。
小説などは自宅に置いて、必要な分だけ毎週ポケットに入れて持って行く。
仕事の本は東京に持って行って、仕事中に参照できるようにする。

たったそれだけのことですが、自宅は生活を楽しむところ、東京は仕事をしにいくところ。
そんな風に気持ちにメリハリがついたので、本棚を1つ東京に持っていくことにしたのは、ナイスな決断だったと思います。
本棚1つ埋めるには仕事の本が少なすぎるけど、だからこそいっぱい本を読む意欲がわきました。

先週はいろんな関係のひとたちから歓迎会が開催されて、勉強するぞという意欲とは裏腹に、夜は楽しく飲んでましたが、そういう時期もあってもいいのかもしれないけど、なんのために妻に不自由な想いまでさせて東京に出てきたのかと、問い続け、行動する自分でありたいと思います。
今日は、東京から自宅に戻ってきました。しっかり充電して、来週からまた頑張ります。
 
 
 

 
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自分で書いた文章をCopilotという生成AIに読ませることにしています。

僕の文章はどうですか?読みやすさに点数をつけてください。
というような質問をするのだけど、今回は90点です。よいところはこういうところですってだいたい褒めてくれるのね。

で、ある時、ふと気づいたんだよね。
これさ、僕の文章をオウム返しにしながら、ほめてくれてる風なだけなんじゃないかってね。

それから、毎回90点ていうけど、僕の文章を使って100点の文章を書いてみてよってcopilotに聞いてみたの。
そしたら、5秒くらいででてきた文章が、確かにすごい読みやすくてさ。
見出しもあって、引用も適切で、論旨が明確で。

わかりやすいなあと思って感心したのと悔しい思いをしたのと。
僕はね、1記事書くのに1時間くらいかかるの。
読後の思い入れが強いと、1時間以上かかってしまうの。
それをたったの5秒くらいでババババッとね。
AIと戦ってもしょうがないんだけどね。これは、copilot先生に添削してもらいながら、文章修行をしないといけないなと思ったよね。

で、実はこの話にはオチがあって。
copilot先生に書いていただいた自称100点の文章をそのままcopilotに採点させたの。
そしたら、わかりやすい文章ですね。90点を差し上げましょうって。
どないやねん。

 

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という文章を今回もCopilotに読ませてみました。

いつも90点ていうのに、今日は85点ですって。

で、100点の文章を書いてよって言ってみました。

それが、下記の通りです。

 

なんか、今回のはいまいちな感じがしたな。

元の文章が、いつもの90点じゃなくて、85点の文章だからかな。

やっぱり本を読んだ感想の方が、内容もしっかりするよね。

適当にほめているわけではないんだなと今回の実験的なブログでわかりました。

 

 

Copilotとの文章修行

自分の文章を評価してもらう

僕は最近、自分で書いた文章をCopilotという生成AIに読ませて、点数をつけてもらうことにしています。

90点の評価

毎回90点をもらうのですが、良いところはこういうところですと褒めてくれるのです。

気づき

ある時、ふと気づきました。これって、僕の文章をオウム返しにしながら、褒めているだけなんじゃないかって。

100点の挑戦

そこで、僕の文章を使って100点の文章を書いてみてよとCopilotに頼んでみました。すると、5秒くらいで出てきた文章が、確かにすごく読みやすいものでした。見出しもあり、引用も適切で、論旨が明確でした。

感想と悔しさ

わかりやすいなあと感心すると同時に、悔しい思いもしました。僕は1記事書くのに1時間くらいかかります。読後の思い入れが強いと、1時間以上かかることもあります。それをたったの5秒でバババッと。AIと戦ってもしょうがないけど、これはCopilot先生に添削してもらいながら、文章修行をしないといけないなと思いました。

オチ

実はこの話にはオチがあります。Copilot先生に書いてもらった自称100点の文章をそのままCopilotに採点させたのです。すると、「わかりやすい文章ですね。90点を差し上げましょう」と。どないやねん。

「9 スキュレとカリュプディス」(P9-96)

1章まるまるシェイクスピア。
複数の登場人物が議論を戦わせる。

ちょっとしたセリフに注がたくさんついている。注だらけだ。
「そう言うのか?」(P63)
(注)「『ハムレット』一幕五場より」

こんなセリフ、欧米圏の人はピンとくるの?

僕もね、シェイクスピアは何冊か読んでいるの。
「ハムレット」「オセロ」「リア王」「マクベス」の四大悲劇はいずれも読んだし、その他にも「間違いの喜劇」「ロミオとジュリエット」も読んだ。
このうち「ハムレット」は複数回読んでいるのだけど、そんな知識では間に合わないくらい、登場人物たちは、縦横無尽にシェイクスピアを語る。

それでも中心になる話は「ハムレット」だったので、まったくの置いてきぼりにはならなかった。
「ハムレット」のストーリーを思い出したり、「オセロ」のイアーゴーの名前がでてきて、どっかで聞いたことある名前だと思ったり、それだけでギリギリ仲間に入れてもらえる感じはあったかな。

途中、「ハムレット」は、シェイクスピアの私生活がどういう風に投影されたか、ということが議論される。
これは、論、というほどのものではなくて、俺はこう思う、いや、それは違う、という掛け合いみたいなものである。
小難しげな小説内の議論というのは、著者の真意なのか、単なる与太話なのか、散々ドストエフスキーの時に振り回された。
こういうのはね、小説内の表現だから、それ以上でもそれ以下でもない、という態度で読むべきなのだと思っている。
まあ、そういう視点で読んだとしても「ユリシーズ」は表面に出てきている言葉の奥に、多くの背景があって、なかなか素人の僕にはその深いところまで入っていくことは難しいと思っているけどね。というよりも、表面的な言葉の意味も何度も読んでみてやっとわかる程度なので、読書をするのに四苦八苦しているのが現状である。

ともあれ、登場人物の誰がシェイクスピアを投影していて、誰が彼の奥さんを投影して、息子は?父親は?という議論を経た後に、結局、すべての登場人物や物語はシェイクスピア自身の投影なんだという結論に達する。
そして、そのことは、もっと普遍的に、他人の中にも常に自分があるのだという気付きへとつながる。
「ぼくらは自分の内部を通り抜けるとき、泥棒や、亡霊や、巨人や、老人や、若者や、人妻や、後家や、色事仲間やに出会うのですが、しかしいつだって自分自身に出会っているんだ」(P84)
この結論は、ジョイスの自伝的小説「若き芸術家の肖像」でもそんなことを言っていたと思うし、芸術に対するジョイスの結論なのかもしれないと思った。また「ユリシーズ」には、実在する人をモデルにした登場人物なども多く登場しているが、この小説自体、ジョイスにとっては、実在する世界を小説として再構築してしまったものなのだろう。

「ユリシーズ」という小説は、文字という限られた情報量の中に本当にいろいろなものが詰め込まれていて、読むのも、感想を書くのも、とらえどころがなくて大変なのだが、そのこと自体、小説の大きさを物語るものなのだろう。

上記の通りなので、物語には流れがあり、その流れ自体が小説なので、言葉を切り抜いてしまうと、言葉が死んでしまうのかもしれない。
それでも、いいなと思ったフレーズは書き抜いておきたい。

芸術の本質について。芸術家を目指した若き日のジョイスの顔が目に浮かんだ。
「芸術作品の最高の問題は、それがどれだけ深い生命から湧き出たかということだからね」(P16)

「ユリシーズ」は、何でもない日常を、何でもないままにドラマティックに表現してしまった小説だと僕は思っている。
ここで紹介するのは、友との若者らしい議論の後の余韻に浸る、登場人物のつぶやきが、すごくしみた一言。
「人生は多くの日々だ。この日もいずれ終る」(P87)
いろんな捉え方ができるとは思うけど、ありきたりの日々こそが、かけがえのない人生なんだということを実感した。