世界文学登攀行

世界文学登攀行

世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。


体育会系
――日本のスポーツ教育が創った特異な世界

本書は、運動能力を買われて大学に入学した運動部員たち、すなわち「体育会系」にスポットを当てた本である。

日本では、明治維新直後の1870年代から、基礎的な体操、さらにイギリスやアメリカを中心とした近代スポーツが受容され、その後の日本の体育やスポーツの性格を形づくり、発展していくことになる。
その際、スポーツは単なる運動としてではなく、アスレティシズムを背景に人間形成上の意義など、さまざまな教育的価値とともに伝えられた。
このような関係から、日本における近代スポーツは高等教育機関である大学において発展することになる。

この「体育会系」という呼称が台頭したのは、1960年代末という大学闘争が盛んな時期のことである。
運動部員たちが大学闘争における重要なアクターだったからだ。
結局、大学闘争を通して運動部員に対するイメージ形成が進み、一般学生とは違う特別な存在としての「体育会系」すなわち運動部員の社会的位置づけが明確になった。

上記のような「体育会系」の歴史から、閉鎖的な「ムラ」社会文化が醸成される素地について学ぶことができた。
スポーツを通じて、仲間たちや先輩後輩と結ばれる絆は特別なものであることを、運動部員への詳細なアンケートを通じて知ることができた。
逆に、狭い社会で規律が乱れると問題が広がりやすく、数多くの不祥事が運動部で続発してしまった、という現実も明らかにされていた。

運動部員は「入試優遇制度」ではないかとの批判を受けるなど、紆余曲折を経て、スポーツ推薦入試などの名目で、正式な入学経路として認められるようになった。
それは、本来、総合的かつ多面的な能力の評価の一つとして「スポーツに秀でる」ことが価値づけられて始まった入試制度だったはずである。しかし、大学が知名度向上を図ろうとして、運動部の強化に結びつけるための制度となっている、と著者は指摘する。
このような目的で入学した運動部員は、競技選手としての自覚しかなく、大学で学ぶという意識に乏しい人もいる。
それは大学を卒業し、社会へと巣立つ時に顕れる。
著者は主張する。
「体育会系学生の就職をめぐる実態は、体育会系文化が大学教育を通してどのように社会へと接続されるのか(中略)『体育会系として何を学び、いかに社会で活かすか』という教育的問いへと転換していく必要がある」(P196)

僕は、毎年、箱根駅伝を見るのだが、プロになれるのは一部の人であり、他の人たちはどのような人生設計を描くのだろうかと心配になることがあった。
しかし、本書を読んで「体育会系」出身の彼ら一人一人が、大学生活が終わってからの長い人生をいかに生きるのかについて、不安に思っていることを知った。それは、僕らが学生だった頃、同じように感じていた悩みであり、彼らと同じ目線で切実に感じることができた。
当たり前の受験を経てきた自分にとっては、知らない世界に生きていた彼らを、身近に感じられる読書であった。



 

 



「17 イタケ」(P129-276)

前章に続く、主人公格の二人の描写である。
しかし、学問的な問答形式を装って語られるので、もちろん普通の小説とは雰囲気が違う。
最後までこの形式で語られていく、極めて技巧的な章である。

話の焦点は二人に当てながらも、それを一般化するかのように、視点を拡大したり、縮小しながら、語り続けられる。
例えば、水を飲もうとして、栓をひねった時に、
「水はでたか?
 出た」(P147)というような問答がはじまり、その水は、遥か遠くウィックロー州にある立方容積二十四億ガロンのラウンドウッド貯水池から流れてきたものであることを延々と描写をする。かと思えば、旱魃による深刻な水不足にはじまる社会問題、特に貧困者への供給制限、その影響などまで語られる。
なんの話やねん、である。

表現の形式がいつもと違うから、読む側も惰性では読めない。
一字一句、文字を丁寧に追いながら、ジョイスの表現したいことの意味をつかもうとし、時折、不意に文章に紛れこんだユーモアににやりとする。今まで経験したことのない読書体験をあじわっていることは間違いない。
ある時、二人が空を見上げているところから、話は星座、恒星、宇宙へと思いを馳せたあとに「それに較べたらせいぜい七十年の人間の寿命は無限に短い幕間劇にすぎない」(P199)と急に現実に視点を合わせられて、ありきたりな言葉なのに、ものすごく印象に残った。
文学による表現の可能性、すごいと思う。

ここまで読んで「ユリシーズ」に思うのは、よくこんなものを書き上げたなという、巨大建造物をみたあとにため息をつくような感覚である。
これは、まねしようとしてもできるものではない。孤高の唯一無二の作品であることは間違いないだろう。

その作品も、ついに次が最後の章となった。
この章の内容、次の章のタイトルを見て、この作品が「オデュッセイア」を下敷きにしたものであることをハッと思い出した。
物語は終わり近くになってちゃんと着地をするようだ。

この作品に終わりが来るなんて想像もできなかった。
感慨深いものがある。

中公新書の「読む技法」を読んだ。
その中で、芥川龍之介「蜜柑」と、梶井基次郎「檸檬」を比較し、共通する構造を考えるという課題が提示された。

「檸檬」は1925年発表、梶井が24歳のときの作品である。
青空文庫で読める、15分ほどで読み終わる短編だ。

「檸檬」は実は一度読んだことがある。その時の感想はコチラ
11年前に読んだときの自分の感想は「よくわからなかった」と書いてあった。
久しぶりの再読の感想は……やっぱりよくわからなかった。

助けを求めるように「読む技法」を読んでみる。
「えたいの知れない不吉な魂」という抽象的で知性で割り切れないもの・観念的なものを相手に、檸檬がもたらす五感すべてを用いた主観的・身体的な闘いを描いていた。読者の身体を震わせる可能性がある小説のことばには、力があり、その力を「文学性」と呼ぶこともできる、という。
芥川の「蜜柑」が専ら視覚情報に訴えた作品であったことと比較すると、梶井の「檸檬」は五感で感じる立体感があるのだそうだ。

そういう読み方を提示されれば、そういう読み方もあるかなあとは思うけど、言われても自分で読み取るのは難しいなあと思う。
感覚で読む文学があり、そういう作品の価値があることも知った。

わからない、と切り捨ててしまうのは簡単だが、文学の可能性をできるだけ捉えられるような感性を磨いていきたいものだ。

「16 エウマイオス」(P1-128)

ある酒場での一幕。
章の中心人物は、自称船乗りの男である。

世界各地を回ってきたという男の話は、語り口のうまさと、新たな知見に満ちていて引き込まれる。
しかし、話しているうちにボロがでてくる。彼は本当に世界を回ってきた船乗りなのか、どこからどこまでが本当の話なのか、本当の話なんか一つもないのではないか、という疑念がわく。

この章の、背景がわからない人たちが集まるカオスな飲み屋の情景にはとてもリアリティがあった。

僕も、こういう飲み屋、酒場に通っていた時期がある。
ただの酔っ払いの集まりに過ぎなかったのに、妙な魅力を感じたものだ。
この章を読んでいて、当時を思い出し、かつ、言語的に表現されることで、自分がなぜこういう飲み屋に通っていたのか少しわかった気がする。

「ユリシーズ」という物語は、ジョイスがいろんな文体を用いて、様々な角度から小説を語る。
何が言いたいのか、理解するのが難しい章ももちろんある。
ただ、この章を読むと、やっぱりジョイスは文章のうまい小説家なんだと思う。
場面への没入感の深さや、書き手と読み手の壁の薄さは、これまで親しんできた小説とは一線を画している。

酔っ払い同士の大放言である。
「天国というのは教区司祭どものペテン、金をまきあげるためのいんちきな口実ですよ」(P82)
なんていう風刺も小気味がいい。
楽しく読み終えることができた。

ついに長大な物語も最終4巻。
18章で完結だから、あと2章で終わってしまう。
最後まで丁寧に読み進めていきたい。

最近、ビジネス枠で読む本は専ら生成AI関連の本。
タイトルに含まれる「ずるい」に引き寄せられて選んだのが本書だ。

本書は200ページ強の新書だが、読了まで2時間半だった。
さらりと読める。
どんな「ずるい」裏技が書かれているのかと興味津々だったが、むしろ本書は基本的なことを一通り説明するまじめな本だった。
教科書的な記述も多く、面白みはないが、当然押さえておくポイントなどは丁寧に説明があって、生成AI初心者にはよい本かもしれない。

読んでいて感じたことをいくつか。

2025年9月発刊という新しさが本書を購入したポイントだったが、本書で紹介されている生成AIの応答などを見ていて、一つ、二つ、世代が古いように感じた。本書の過失というよりも、生成AI業界のスピードの速さなのだろう。

という、上記の理由もあるのかもしれないが、もう少し、実際の業務に使えるようなノウハウ的なものを期待していたが、あまりそういう面では得るものは少なかった。ちょっとタイトル詐欺かもしれないと思う。

本書の後半は、生成AIの可能性について、著者がいろいろ試した結果などを共有しているが、それは誰でも触ってみれば似たような結果が出てきそうな、興味の延長にありそうなもので、もう少し専門的な深堀りが欲しかったなと残念に思う。

1個だけ記憶に留めておきたいことを書いておきたい。
面倒な単純作業や定型業務をAIに任せ、人間はより創造性が求められる仕事に集中するべきだという文脈の中で、その創造性が求められる仕事に、対人コミュニケーションをあげている。
対人コミュニケーションは、当たり前のように普段から行っていることなので、あまりそのことに付加価値などを見出していなかったが、重要な仕事だということを意識できた。