【神指城/二の丸編】豊臣政権五大老≪上杉景勝≫の幻の巨城
2011.05.04 神指城/二の丸北東隅櫓跡にそびえる高瀬の大ケヤキ神指城(こうざしじょう)は、現在の福島県会津若松市神指町にあった城で、
本丸と二の丸からなる「回」字形の輪郭式平城で、面積は本丸56,000m²、二の丸を含む全域では500,000m²あり、
【若松城】(会津若松城/鶴ヶ城)の約2倍の規模だったようです。
城の鬼門に位置する「高瀬のケヤキ」(現存)と北極星を基点に縄張りしたと伝えられています。
2009年のNHK大河ドラマの「天地人」で、『 北斗の七星 』 と良く登場していた言葉は、
こう言うところと絡んでいるのでしょうか?
≪関ヶ原の戦い≫が短期決戦と終わり、一気に天下が「徳川家康」政権に移ったため、無念ながら完成まで
至らなかった越後上杉家の会津での幻の巨大城です。
本丸大手口付近にある現地城郭図からです。
※ クリックすれば、大きくなります。
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神指城の完成予定図/高瀬の大木の付近に白黒版が掲示されています。
高瀬の大木の遠景(城郭東側から)
高瀬の大木のある場所は二の丸の北東隅の土塁で櫓跡だったようです。
二の丸北東隅の土塁
現地説明板より
高瀬の大木(ケヤキ)
会津若松市神指町高瀬字五百地
慶長年間に上杉景勝が築城した神指城跡の東北隅の土塁上にある。築城前から既に大木であったことが知られ、根元の周囲12.55m、目通りの幹囲10.45m、樹高24.64mある。大枝のの折損が相次ぎ、幹部に亀裂が生じてきたが、樹姿はなお堂々としてすぐれ、ケヤキの巨樹として有数のものである。昭和56年11月会津若松市教育委員会
高瀬の大木(ケヤキ)
会津若松市神指町高瀬字五百地
慶長年間に上杉景勝が築城した神指城跡の東北隅の土塁上にある。築城前から既に大木であったことが知られ、根元の周囲12.55m、目通りの幹囲10.45m、樹高24.64mある。大枝のの折損が相次ぎ、幹部に亀裂が生じてきたが、樹姿はなお堂々としてすぐれ、ケヤキの巨樹として有数のものである。昭和56年11月会津若松市教育委員会
二の丸北東隅櫓跡
現地説明板より
慶長5年、時の会津藩主「上杉景勝」が高瀬村に新城の築営を行ったが完成しないまま現在に至る。この巨石はここより南方300mの本丸に慶山村「現・東山町」の山中から運んだといわれる石垣の基礎石で昭和58年にここに移し保存するものである。 高瀬共有財産区
慶長5年、時の会津藩主「上杉景勝」が高瀬村に新城の築営を行ったが完成しないまま現在に至る。この巨石はここより南方300mの本丸に慶山村「現・東山町」の山中から運んだといわれる石垣の基礎石で昭和58年にここに移し保存するものである。 高瀬共有財産区
高瀬の大木の根と城郭図
北東隅の外堀址
二の丸北東隅の外堀を挟んで福昌寺があります。
※ 境内の説明板から、上杉時代よりかなり昔から、この寺院はあったようです。
※ 境内の説明板から、上杉時代よりかなり昔から、この寺院はあったようです。
二の丸北東隅から城郭南側にも土塁が残っています。
二の丸北西隅土塁
二の丸北西隅土塁から北東隅櫓と本丸
二の丸の南西側の土塁
※ 土塁上に民家があるけど、どうなってるんだろう?
※ 土塁上に民家があるけど、どうなってるんだろう?
南東隅土塁
本丸北側の内堀址
※ 分譲しているようですが?買おうかな???
※ 分譲しているようですが?買おうかな???
本丸南側の内堀址
※ 南側は田畑になっています。
※ 南側は田畑になっています。
本丸北東隅から二の丸の北東と北西隅
城郭南側からの全景と五穀神社
神指城へのアクセス地図は、下記をクリックしてみて下さい。
http://yahoo.jp/Okbpe6
≪ ちょいスタTime ≫ 「 神指城の築城 」について 他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し 源さんがアレンジさせて頂いております。 ----------------------------------------------------------------------------------------- 慶長3年(1596年)会津へ移封された上杉景勝が、会津盆地の東南隅に位置する【会津若松城】は拡張が 難しいと判断し、盆地中央で阿賀川畔の神指ヶ原に新たな城の建設を家老「直江兼続」に命じ築城させた ものです。 兼続は弟の「大国実頼」を作事奉行とし、慶長5年(1600年)3月18日から築城を開始します。 神指ヶ原の13ヶ村を強制的に移住させ、領内から12万人を動員、石垣、土塁、堀、門、などを完成させますが、 天守着工前に「徳川家康」の会津征伐により6月10日で工事は中断してしまいます。 ≪関ヶ原の戦い≫の後、慶長6年(1601年)上杉氏は米沢へ移封となり、完成を待たずして神指城は破却され、 寛永16年(1639年)会津藩主「加藤明成」が石垣を全て若松城へ運び去ったとされています。 《 高瀬の大ケヤキ下にある現地説明板より 》 【 神指城跡 】 神指城は、蒲生秀行が宇都宮に移封となった後、慶長3年(1598)に会津の領主となった上杉景勝が、 重臣「直江兼続」に命じて築城させた城です。 慶長5年(1600)3月から工事が開始され、同年6月には一応形が整ったと言われています。 縄張りは、本丸と二ノ丸から成る輪郭式の平城で、それぞれ濠と土塁が取り囲む構造となっています。 このような形の縄張りを持つ城は、身近な所では山形県の米沢城が代表的です。 面積は、本丸だけでも約56.000㎡、二ノ丸を含む全域では約500.000㎡もあり、若松城を遥かに凌ぐ規模の 壮大な城でした。この土地(高瀬の大木の場所)は二ノ丸土塁の北東隅にあたります。 この地が城郭建設地として選ばれたのは、若松城が会津盆地の東南隅に位置することから城や城下町の拡張が 難しかったのに対し、盆地の中心で平坦なため、築城、築城地として適していたためと考えられます。 しかし、築城半ばであった神指城も、徳川家康による会津征伐の情報を得るなどの情勢の変化により工事は 中断されます。そして、関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601)には上杉家は米沢30万石に転封となり、 神指城は完成を見ないまま廃城となりました。 このように、築城時期と廃城時期が特定できる城郭として貴重な存在となっています。
神指城へのアクセス地図は、下記をクリックしてみて下さい。
http://yahoo.jp/Okbpe6