【会津若松城/二の丸三の丸/赤瓦編】豊臣政権五大老≪上杉景勝≫の居城

2011.05.04 会津若松城/鶴ヶ城の天守と本丸
イメージ 1



若松城(わかまつじょう)は、地元では一般的に【鶴ヶ城(つるがじょう)】とも呼ばれ、地元以外では【会津若松城】と

呼ばれることも多く、1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)に「蘆名氏7代当主の蘆名直盛」が【小田垣の館】

または【東黒川館】という館を造ったのが【若松城】の始まりとされています。

以後、代々蘆名氏の城で、戦国中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が、この【黒川城】を中心に広大な版図を

築いていきます。1589年(天正17)、一旦「伊達政宗」の手に渡りますが、天下人「豊臣秀吉」に会津を召し上げられ

代わって黒川城に入ったのは「蒲生氏郷」、この蒲生氏郷により城下町が整備され、1593年(文禄2年)望楼型7重

(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名を【鶴ヶ城】に改められます。

蒲生氏の家中騒動のため、1598年3月、今度は越後国春日山城より豊臣政権五大老の1人「上杉景勝」公が

120万石で入封します。しかし、その数ヵ月後に豊臣秀吉が死去。

その2年後、1600年(慶長5年)≪関ヶ原の戦い≫で徳川家康は西軍に加担したとして景勝公を30万石に減封、

出羽国米沢に移封したのです。

※城の詳細は【会津若松城/本丸北出丸/真冬編】【会津若松城/本丸晩秋編】も併せてご覧下さい。


城郭概略図です。
※ クリックすれば、大きくなります。
イメージ 2


三の丸の様子です。
イメージ 3


二の丸と三の丸間の濠
イメージ 4


二の丸東門
イメージ 5


二の丸東門の内側
イメージ 6


二の丸のテニスコートと濠
イメージ 7


二の丸南門付近
イメージ 8


二の丸から本丸間の廊下橋
イメージ 9


廊下橋の外側と内側
イメージ 10


本丸郭の北側にある北帯郭
※ 御弓櫓や北櫓の址があります。
イメージ 11


北帯郭から本丸郭内へ
イメージ 12

本丸埋門
天守閣の北東にあって本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる枡形の城門である。城内のほか尚門や建築物に比較して低い門構えで埋門の形態をとっていた。大手口が東であった築城当時は表門であったが、寛永16年(1639)の加藤明成による改築後は裏門となっている。本丸奥御殿の勝手口としても重要な門である。

本丸郭を縄張りする石垣
※ 赤瓦に復元後直ぐに起きた東日本大震災で石垣も崩れていました。
イメージ 13


本丸郭中央部には藩主の居間跡があります。
イメージ 14


御居間跡からの天守閣
イメージ 15


御三階址
※ 当時の現存で市内の正覚寺へ移されています。再びここに移築する計画があるようです。
イメージ 16


茶壷櫓跡からの天守閣
イメージ 17


茶壷櫓跡と廊下橋
イメージ 18

茶壷櫓
櫓内には常に貴重な茶器類がおさめられていたのでこの名がある。更に武器の収容をも目的とした二重の塗込櫓であった。茶壷櫓の西側の本丸奥御殿内には茶室「麟閣」が建てられていた。この櫓は御弓櫓と共に本丸の旧大手口に通じる廊下橋の横矢掛りとしても重要な櫓であった。北側の石垣は高さ20メートル余りで城内では最も高く美しい扇勾配をなし、「忍者落し」ともいわれている。

月見櫓跡
イメージ 19

月見櫓
二十の塗込櫓で常に武器が収められていた所であったが、城内から月見の場所としては絶好の櫓でもあったことから月見櫓の名が付けられていた。城下南方の湯川や天神橋方面の搦手側の物見櫓として、また内濠、牛沼沿の本丸石垣の外部の横矢掛りとしても重要な櫓であった。

鉄門と天守閣
イメージ 20

表門(鉄門/くろがねもん)
帯郭から本丸内の奥御殿に通じる表門で北向きの多聞櫓城門である。扉や柱が鉄で包まれていたところから鉄門の名が付けられている。門の石垣の仕法は「切込ハギ」と呼ばれ代表的な遺構の一つとして知られている。
※多門/多聞とは長屋状の建物をいう。

上杉謙信公仮廟所跡
イメージ 21

上杉謙信公仮廟所跡
天正6年(1578)に亡くなった戦国武将「上杉謙信」は甲冑姿で甕(かめ)に納められたと伝えられ、居城の春日山城に葬られました。その後、跡を継いだ上杉景勝が会津へ移封するのにともない、謙信の墓所も会津へ移されることとなり、若松城(鶴ヶ城)内の西南の隅の仮殿に安置された記録があります。当時の城内の様子は正確にはわかりませんが、「城内」が今の内堀に囲まれた中を指しているのならば、この蔵跡あたりが該当するのではないかと考えられます。慶長6年(1601)、上杉景勝の米沢転封により、謙信の遺骸も米沢城の本丸に移されました。

太鼓門付近と北出丸方向
イメージ 22

太鼓門
北出丸から本丸に通じる大手門(追手門)のことで、そこには多聞櫓と呼ばれた櫓が建てられ、胴の径五尺ハ寸(約1.8m)の大太鼓を備え、藩主の登城や非常事態、その他の合図に使用されていたところから太鼓門と呼ばれていた。

太鼓門内側の武者走り
イメージ 23


太鼓門内側から見上げる天守閣
イメージ 24


御三階
※市内の「正覚寺」の境内に移され現存しています。
イメージ 25

御三階
江戸時代の建築で、明治初年まで鶴ヶ城本丸にありましたが、明治3年にこの地に移されました。外観は3階ですが内部は4層になっており、2階と3階のの間に天井の低い部屋があります。3階に上る梯子は用のない者が上がれないように、上から引き上げる仕組みになっており当時は密議所に使用されていたと思われます。また本丸北東の正方形の石垣の上に建っていたところから物見や展望台の役目を果していました。
戊辰戦争の戦火で阿弥陀寺が焼失したために、長く本堂として使用されてきました。玄関の唐破風は城内本丸御殿の玄関の一部を配したものです。鶴ヶ城の遺構として唯一残る貴重な建物です。


≪ ちょいスタTime ≫

「 五大老と五奉行/豊臣政権末期から徳川政権への変遷概略 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
-----------------------------------------------------------------------------------------
五大老(ごたいろう)とは、末期の豊臣政権の政務にあたった徳川家康、前田利家ら有力五大名を指した言葉。

豊臣秀吉は己の死後、その息子「豊臣秀頼」を五大老が補佐し、合議制をとることにより「徳川家康」の台頭を

防ごうと考えていました。将来台頭し、豊臣家と覇権を争う可能性のある家康を大老として取り込んでしまうことに

より禍根を断とうとした秀吉の策でもあったのです。秀吉存命中は、秀吉の期待に沿う働きをしていましたが、

死後は家康の度重なる盟約違反により有名無実化していきます。

なお、五大老はその数が常に固定化されていたわけではなく、上杉景勝は小早川隆景が死去するまでは、連署に

署名している場合とそうでない場合があり地位が固定化されるのは隆景死後からでした。

また総ての人物が同格でなく特に徳川家康は終始、五大老内でも特段の地位を保持し続けていました。

この家康に対抗する人物として前期は≪毛利輝元/小早川隆景≫、後期は≪前田利家≫が充てられていました。

秀吉の死後は遺命により、「徳川家康」が【伏見城下】にて政務をとり、「前田利家」は【大坂城】において

秀頼の傅役とされました。

前田利家の存命だった慶長4年(1599年)までは、家康の専横までは防げなかったものの、家康が豊臣家より

上回る権威を持つことを防ぐことはできていました。

しかし、「前田利家」死後に家康は自分以外の大老を帰国させ、兵を率いて【大坂城西の丸】に入って秀頼を

掌中に収め、中央において家康を掣肘する存在がなくなったのです。

前田家は、家康に屈服し人質を差し出し、残る二家(毛利家・宇喜多家)は≪関ヶ原の戦い≫で敗れ、

上杉家は≪慶長出羽合戦≫などで東軍の敵となり、いずれも改易または大幅減知となり脱落、転落していきます。

こうして「徳川家康」の単独支配体制が確立していったのです。

また、五奉行とは、豊臣政権末期に主に政権の実務を担う5人の政治家(奉行職)的人物を指した言葉。


【五大老】

□徳川家康(関東に256万石)
□前田利家(北陸地方・加賀など83万石)
□毛利輝元(中国地方に120万石)
□宇喜多秀家(中国地方・備前57万石)
□上杉景勝(東北地方・会津120万石)

【五奉行】

□主に司法担当 – 浅野長政(筆頭・甲斐甲府22万石)
□主に行政担当 – 石田三成(近江佐和山19万石)
□主に土木担当 – 増田長盛(大和郡山22万石)
□主に財政担当 – 長束正家(近江水口5万石)
□主に宗教担当 – 前田玄以(丹波亀岡5万石)



鶴ヶ城へのアクセス地図は、下記をクリックしてみて下さい。  
http://yj.pn/JBsgfk