【魚津城】織田信長軍と上杉景勝軍の越中覇権争いの舞台城

2011.04.09登城 本丸址の現「大町小学校」正門付近に建つ城址石碑
イメージ 1



魚津城(うおづじょう)は、富山県魚津市にあった平城で、別名「小津城」または「小戸城」とも云われています。

【松倉城】の支城のひとつで、≪魚津城の戦い≫の舞台で有名です。

伝承では、建武2年(1335)「椎名孫八入道」によって築城されたと云われ、戦国時代に「椎名康胤」が

上杉氏から離反すると、【魚津城】は、椎名氏を追討して越中に侵攻した上杉軍の手に落ち、以後上杉氏の

越中支配における重要拠点となり、「河田長親」が長くの間、城代を務めています。

跡地は現在大町小学校および裁判所などの敷地となっており遺構は殆ど残っていません。
※ 現地説明板より
魚津市指定文化財 記念物(昭和38年4月1日指定) 
史跡 魚津城跡
松倉城の麓を流れる角川の河口付近に位置し、旧北陸道に面した交通の要衝に築かれた平城です。築城年代は定かではありませんが、室町時代には松倉城の重要な支城(出城)として機能していました。
天正10年(1582)、越後(新潟県)を本拠地とする上杉方にとって、越中(富山県)における重要な拠点であった魚津城は、西方より勢力を拡大してきた織田方の柴田勝家、佐々成政、前田利家らの攻撃を受け「本能寺の変」の翌日である6月3日に落城しました。その後、魚津城は佐々氏、次いで前田氏の支配下となりましたが、江戸時代の初めに廃城となり、加賀藩の米蔵や武器庫として利用されました。城の周囲には奉行所や寺院が置かれたことから、新川郡の政治的・軍事的中心として栄えました。江戸時代中頃の「魚津町惣絵図」には、城の本丸とそれを囲む二の丸や堀が描かれており、近年まで堀の一部が残っていました。本丸の部分は現在、大町小学校となっています。
平成22年9月 魚津市教育委員会
※【魚津城】へのアクセス地図は、下記をクリックして下さい。
http://yahoo.jp/h5ZQd2


城郭概略図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。当時の絵図を参考に推定城郭図にしてみました。
イメージ 2


現地の説明板の城郭図です。
※ クリックして大きくしてご覧下さい。
イメージ 3


大町小学校のグラウンドです。
※ 小学校裏手(当時の大手口)からの登城。隅に土塁みたいにしてありますが、まさか当時のものではあるまい?
イメージ 4


グラウンドの入口には上杉謙信公の歌碑が建てられています。
※ 同所に植えられている松は「ときわ松」(二代目)と言われる松です。
イメージ 5


上杉謙信公の歌碑です。
イメージ 6


上杉謙信公の歌碑の説明です。
※ この歌を詠んだ時は、自分の死後、魚津城に織田軍が攻め寄せて来ることなど思いもしなかったでしょう。
イメージ 7


ときわの松と魚津城址の案内です。
※ 魚津城址の石碑などは小学校の正面に回って下さい。「ときわ松(初代)」は、古くから【魚津城】内にそびえ立っていとのことで、上杉謙信公が植えたとも云われています。しかし、昭和16年(1941年)の火災で焼失してしまい、焼け残った木の部分を木材にして、大町小学校の机などを作ったそうです。今の松は植えなおしたもので当時のものではありません。
イメージ 8


大町小学校の正面にある城址石碑と説明板
イメージ 9


魚津城城址石碑
イメージ 10


小学校正面玄関付近です。玄関前あたりは濠があったようです。
イメージ 11


現在の大町小学校の学び舎です。当時に、あんな悲惨で凄まじき戦いがあったとは思えぬ光景です。
イメージ 12


魚津とは遠く離れていますが、魚津在城十三将の一人「吉江宗信」の墓所は、山形米沢市の林泉寺にあります。
イメージ 13



≪ ちょいスタTime ≫

「 魚津城の戦い 」について

他の城郭研究資料または、フリー百科事典『 Wikipedia 』などいろいろな文献より抜粋し
源さんがアレンジさせて頂いております。
-----------------------------------------------------------------------------------------
上杉氏と織田氏は、一時は、甲斐武田氏と相模後北条氏に対するため同盟を結んでいましたが、織田信長が

将軍家をないがしろにしていくのを見るに絶えず、毛利氏の元に身を寄せていた将軍「足利義昭」が反信長勢力を

迎合すると、謙信公は同じく織田氏の当敵である本願寺と和睦、同盟は手切となり敵対関係に入ります。

七尾城攻防戦や≪手取川の戦い≫を経て、一旦は上杉軍が優勢になりますが、天正6年に謙信公が死去すると

上杉家内部で、亡き謙信公の家督争い≪御館の乱≫を起してしまいます。しかし、1年以上続いた、この乱で、

「上杉景勝」公が当主となったものの、多くの諸将を失い越後の国力・武力は半減してしまいます。

結果的には越後統一までは、その後も続き、約7年余りも費やす事になるのです。

乱を制圧した上杉景勝ですが、この乱に勝利するため、信長の当敵である甲斐武田氏と同盟したため、

上杉・織田氏は引き続き敵対関係が続きます。

一方、謙信公死後、≪御館の乱≫の隙を付き、織田信長は北陸地方の支配を目論み、織田軍の

北陸方面軍総司令官「柴田勝家」らが上杉勢を次々と粛清、北陸地方における織田の基盤が作られていきます。

そして、ついに天正10年(1582年)2月に織田勢は甲斐武田氏を滅ぼし、その勢いで同年3月に魚津城を囲みます。

一旦は、織田方「神保長住」の【富山城】を奪還し、魚津城から織田方を兵を引かせるも、再び【富山城】を

奪還され、「柴田勝家、佐々成政、前田利家・佐久間盛政」ら、4万ともいわれる織田軍は【魚津城】への攻撃を

再開し、上杉氏も3,800ともいう兵で、城に立て籠もったのです。

【魚津城】を再び包囲された上杉方指揮官「中条景泰」は、すぐに越後【春日山城】の「上杉景勝」に救援を

求めますが、越後に接する信濃・上野には武田征伐を終えた織田軍が駐屯し、さらに越後の揚北衆【新発田城】

の「新発田重家」が織田軍と通じ、景勝の領内侵攻の姿勢をとった為、後詰の兵を出すことが出来ずにいました。

そして、その後に兵を整えた景勝は天正10年(1582)5月4日魚津城救援のため、自ら軍勢を率い【春日山城】を

出発、5月19日には魚津城東側の【天神山城】に入り陣を張ります。

しかし、すでに織田軍は、5月6日に二の丸を占拠していたため、景勝は【魚津城】に戦を仕掛けられずにいたところ

今度は、信濃【海津城】の「森長可」、上野【厩橋城】の「滝川一益」が、【春日山城】を総攻撃する態勢に入った

ため、5月27日に、【天神山城】からの退陣を決断。その後、【魚津城】の上杉軍は篭城戦を展開し、

両軍が決死の攻防戦を繰り広げますが、開戦から3ヶ月後の 6月3日に、落城を悟った


 「 山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・

  亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱 」ら上杉方の守将13人が自刃して果て【魚津城】は落城。


こうして織田軍の勝利となったのです。この時、守将らは自刃する際、自分の耳に穴を開けて自分の名前を書いた

木札を全員で結び自刃したと伝えられています。

これにより、景勝は信長に北陸地方を支配され窮地に立たされますが、6月2日に信長が本能寺で明智光秀に

より討たれ(本能寺の変)、主君の死に驚いた織田勢は全軍撤退します。

落城前日の6月2日に、織田信長が明智光秀により討たれ、織田軍指揮官の柴田勝家に急報が入ったのは

落城の翌日6月4日で、この急報があと1日早く、6月3日だったら、守将自刃の悲劇は起きなかったも云われます。

空城となった【魚津城】には「須田満親」を中心とする上杉勢が入り、越中東部における失地を奪還するも、

越中平定を目指す「佐々成政」に再び押され、城を開け渡すことになります。

-----------------------------------------------------------------------------------------

≪越後上杉軍の越中方面指揮官について≫

魚津城の戦い当時の【魚津城】の指揮官は、奥山庄の鳥坂城城主「中条景泰」とされています。

※ 越後上杉所縁の古城 (下越後)の【江上館】記事を参照して下さい。

中条氏は、越後国人衆の揚北衆三浦党の一人ですが、中条氏で後継の男子がいなくなり、同じく越後国人衆の

西蒲原郡の吉江氏から中条氏に婿養子に入り家督を相続したのが「中条景泰」です。

前指揮官「河田長親」死後、越中戦線に送られ、実父「吉江景資」らと織田軍の攻勢を防いできました。

十三守将の一人で、老将「吉江宗信」の孫に当ります。自刃時、老将「吉江宗信」77歳。

「中条景泰」25歳、「吉江景資」55歳。


前指揮官「河田長親」という武将は、長尾景虎(後の上杉謙信公)が2度目の上洛の際、その美貌と才能を

認められて側近として取り立てられ、奉行職を歴任した智勇兼備の武将であったとされています。

古志郡【栖吉城】城主を務め、永禄年間は【沼田城】城代、永禄末年からは【越中魚津城】を預かり、

越中方面の総指揮官として軍政に当たっています。その後、越中松倉城城主を経て、天正5年(1577年)

謙信公が織田の大軍を迎え撃った手取川の戦いの際は落城した【七尾城】を受け取っています。

天正6年(1578年)に謙信が死去すると出家して禅忠と号し、≪御館の乱≫では景信や一族の河田重親が

「上杉景虎」に味方したのに対し、はじめ中立を保ち、のちに「上杉景勝」を支援します。

この間「河田長親」は、謙信の死を好機として侵攻してくる織田軍への防戦に追われていました。

織田信長からは、近江国を与える条件で上杉氏に背くよう誘いが来たが、これを断り景勝を支援し続けます。

その後も柴田勝家、佐々成政らの越中侵攻を迎えて戦うが、その最中の天正9年(1581年)に越中松倉城で病死。

享年39歳。

この長親の死去に乗じて勢い付いた織田軍により、越中の過半が織田氏の支配圏に入ることとなったのです。

「河田長親」が、織田信長軍の侵攻を遅らせた功績は、多大な物があります。

もう少し、元気でいたら能登や越中は越後上杉氏の支配下のままだったはずですが、これも歴史です。