簡単なシャワーを浴びて部屋に戻ると、あいつがパソコンの前に突っ伏して寝息を立てていた。
モニターにはワードの画面が浮かび、「今期決算による~」等の小難しい文字列が並んでいる。
水気を含む髪を荒く拭いて、あいつの横に腰を下ろした。

長く伸びた髪が、腰まで真っ直ぐに垂れている。
その流れに沿うように、静かに手を触れる。
艶やかなその表面は何の抵抗もなく手を滑らせた。
もう一度、感覚を確かめるように手を這わせる。
寝息は乱れない。
まだ、起きない。

ほんの少し、髪を掬い取る。
つ、と手を動かせば、肌触りのいい細い髪束が、指の合間をすり抜けて流れていった。
そうして、何度も、何度も、髪を鋤く。
滑らかな指通りが、次第に癖になっていく感覚を楽しみながら。
軽く摘み上げた髪束から静かに手を離せば、はらはらと髪が零れ落ちていく。
もう一度髪を掬い上げたところで、不意に、身じろぎをされた。
咄嗟に、髪から手をはねのける。

しかし結局起きることはなく、どうやら更に深い眠りに沈んでいったようだった。
この、うすらばか。
このまま朝まで眠りこける気か。
書類の散らかり具合を見るに、急ぎの仕事であることは間違いないだろう。
放置すれば翌朝には惨劇が待っているに違いない。
呆れ気味に溜め息をひとつ吐いて、もう一度、その髪に触れた。

表面を撫でるように、先程よりも少し大胆に、頭のラインをなぞる。
撫でていた手はいつしか髪の流れに沿って降下し、摘まみ取れるだけの僅かな毛束が指を滑らかにすり抜けていく。
辿り着いた髪先は、自分の顔の目の前まで迫っていた。


起きろ。
いや、起きるな。
起きろ。
起きるな。
起きろ。
起きるな。




――… 気付け。



手繰り寄せた髪先に、静かに、唇を寄せた。

鼻先に、むせかえるような、シャンプーの香りが充満する。
もし目を開けて、こいつが、目を覚ましていたら。
そしたら、俺は、――…俺は、どうする?

ゆっくりと、目を開ける。
あいつは、気付かない。

寝息は相変わらず一定のリズムを保っている。
不思議な居心地の悪さだけが腹の底に溜まっていく。
やっぱりこいつは、うすらばかだ。
起きないのなら起こしてやるものか。
明くる朝に真っ青になって泣きを見るがいい。


気付かなかった、罰として。








★たったひとつの触れる方法


「あ、そういえばさ」
「んー?」
「三ツ葉がまた胸大きくなったらしいんだよね」
「」
「」
「え、ちょ、何二人とも。面白い顔して」
「引く」
「今回ばかりは善に賛同させてもらう」
「え、なんで?」
「いやいやいや、普通自分の姉貴が胸大きくなったとか他人に言うか?」
「え、言わないの?」
「言わねーし言われたこっちもリアクションに困るわ!」
「どうでもいい」
「そう、それ」
「はぁ?あの三ツ葉がまた胸でかくなったんだぜ?どうでもいいとか意味分からんのだけど」
「お前が意味分からんわ!」
「もー分かったよー愛ちゃんがアレだからってそんなキレんなよー」
「………え?」
「………え?」
「え、何これ今軽くジャブ打ち込まれた感じなんだけど」
「だって愛ちゃんアレじゃん」
「確かに」
「善!?ふざけんななんでそんな話になってんだよ!」
「実際どうなの?」
「何が!」
「あるの?」
「当たり前だろ!あ、……」
「…………」
「…………」
「………………うん」
「なにその日本人らしい曖昧さ加減」
「まな板だろ」
「!?」
「善それは言い過ぎだよ。まな板にレーズンだよ」
「!!?ち、違う…違う違う違う!違う!」
「ちょ、落ち着けって哀」
「レーズンほど黒くない!!」
「そこ!?」














「小豆!小豆だから!」
「分かった分かったから哀もう落ち着けって!」
「小豆いいいい!」
「もう言わないからごめんって!お願いだからそんなリアルな喩えしないで胸が張り裂けそうだから!」
「ただいまー。あれ、何してんのみんな」
「うわああああ愛ちゃん今来ちゃ駄目ええええ!」
「小豆がー!!」
「え、ちょ、え、ええええ?」

静けさの中、目を覚ました。
辺りは薄暗く、ぼんやりとした視界に天井の照明の輪郭が映る。
もぞもぞと布団の中で頭だけを捻って時計を見上げれば、短い針と長い針が4の位置でピッタリ重なり合っていた。
普段より何倍も鈍い頭をなんとか動かしてその意味を探る。
明け方というにはあまりに早すぎる時間。
なんて時間に目が覚めてしまったのかと、小さくため息をついた。

早く二度寝しないと。
一度目を覚ますと再度寝つくのが難しい自分の性格は十分に理解している。
さっさと寝てしまおうと、寝返りをうった。
変わる視界に、一瞬映るベランダの景色。


あ。


善が、そこに立っていた。
此方に背を向けて、ベランダの手すりに肘をつくようにして、善は、まだ日の昇らない街をただ眺めていた。

どうしてこんな時間に善が起きているのだろう。
普段なら起こそうにも起きないくらい眠り続けている筈なのに。
一体いつから、ああしていたのだろうか。

横たえていた体を起こす。
気がつけば体は勝手にベランダへと向かっていた。



カラカラ、と引き戸の乾いた音が響く。
その音に気がついた善は一度だけこちらに視線を移してから、それからまたすぐに街へと目をやった。

高層マンションの中階には、秋の訪れを告げるかのような、仄かに冷気を帯びた夜風が吹きつける。
その風に靡く善の髪を眺めながら、私も善と同じようにベランダの手すりへともたれかかった。


「何してんだ。」
「え。」
「何時だと思ってる。」
「ああ…うん。目、覚めちゃって。そういう善こそ何してるのさこんな時間に。」
「………………街を、眺めてた。」
「ふうん。何時に起きたの?」
「多分4時くらいだ。」
「じゃあ20分近くこうしてたの?」
「ああ。」
「馬鹿ね。季節の変わり目にそんな部屋着1枚でベランダに立ってたら風邪引くわよ。」
「…そうだな。」
「もう。」


相変わらず此方を見向きもせず、抑揚の無い言葉だけが返される。
一体何を眺めているのか、ふと気になって、私も口を噤んで夜の街へと目をやった。

ほんの僅か東の空が黒から藍色に変わり始めた街は、住宅街ということもあり、静かだ。
けれど少し遠くに見える幹線道路には、こんな時間でも車の列が耐えることは無い。
ハザードの赤い光と信号の3色の光、そして等間隔に並ぶ街頭の規則正しい光の列で、辺りの街は静かにその姿を浮かび上がらせていた。


「朝方は冷えるな。」
「そうだね。もう秋だなあ。」
「あっちはもっと冷えるだろうがな。」
「ああ、地元?そうだね。こんなの比じゃないんだろうね。」
「静けさもだ。」
「うん。もっと、虫の声しか聞こえないくらい静かだもんね。懐かしいなあ。」
「帰らないのか。」
「うーん、暫くはいいかなあ。お金もかかるし。親から連絡来たら帰ろうかな。」
「普通、盆正月には連絡来るだろ。」
「それが全然。忙しいと思って気遣ってくれてるのかも。」
「随分と放任主義だな。」
「ま、今に始まったことでもないし。」
「言えてるな。」


ふ、と善が口元だけで笑みを漏らす。
その仕草に思わず、魅入った。
そういえば、善の笑う顔を久々に見た気がする。
笑わないなんてことは無いんだろうが、それでも私の前ではほとんどその表情は変わらない。

というよりも、こうして2人で話をすること自体、何年ぶりだろうか。
二人でいることはあっても、お互いにやりたいことを勝手気ままにやって、ただ場所と時間を共有しているだけというシチュエーションばかりだった。

そうでなくても、こんなに善が話すのは珍しい。
いつもは此方が話しかけても気だるい生返事か無言でしか応じない彼が、こんなにも会話のキャッチボールを続けてくれるのはそうそうあることじゃない。

ふと空に目を向ければ、空の色は仄かに藍色から群青色へと移ろい、眼下に広がる住宅街の輪郭も、先程より幾分かはっきりと見える。
明け方の夜の薄暗さと、人々が動き始めるその直前の、もどかしい静けさの中で、善も少し雰囲気に当てられて、饒舌になっているのだろうか。
隣を見上げれば、整った造形の横顔が目を細めて、やはりただ街並みを眺めていた。


「善、」
「なんだ。」
「寝ないの?」
「ああ。もう寝た。」
「そ。でも風邪引くから早めに中入らなきゃ駄目だよ。」
「…お前はどうすんだ。」
「んー、どうしようかな。」
「眠れないんだろ。」
「うーん、二度寝するつもりだったんだけど、もうかなり目も冴えちゃったからなあ。」
「なら、ここに居ればいい。」
「え。」
「寝なくていいだろ、もう。」
「え、あ、…そう、だねえ。」
「それでいい。」


あ、また、笑った。
笑ったと言えるかどうかも怪しい、その小さな表情の変化に魅せられる。
辺りは段々と、東の空から朝が迫ってきている。

今日の善はやっぱり上機嫌だ。
それも、朝日が昇ったらまた元の彼に戻ってしまうのだろうか。
なら今日は、いや、ほんのあと数時間だけは、このおしゃべりを楽しんでみようか。
世界が白み、いつも通りの朝が来てしまう、その時までは。


「…しょうがないなあ。」
「………」


遠くで車が走り去るエンジン音が聞こえる。
早起きのカラスが空をよぎって飛んでいく。
二人の会話は、尽きない。



それは、朝が訪れるまでの、ほんの僅かな時間のお話。





携帯を開いて、目を丸くした。
登録したまま何年も見ることの無かった名前が、ディスプレイに浮かんでいた。

「も、もしもし」
「俺だ」
「善、だよね」
「ああ」
「びっくりした…どうしたの突然」
「今どこだ」
「え、いや…東京だけど」
「どこだ」
「え?まあ、正確には埼玉の○○」
「番地は」
「ちょ、何なの?どうしたのよ」
「番地は」
「…○の○の△」

言うや否や、プツリと一方的に電話は切られてしまった。
あまりに唐突すぎる内容に、疑問を通り越して苛立ちがふつふつと沸いてくる。
一応、「なんなの?」とメールもしたが、返信は一向に来なかった。

それにしても、本当に久々に、あの名前を見た気がする。
善。
私の幼なじみ、と言うよりは腐れ縁に近い人間。
最初に会ったのは多分、幼稚園の頃だった気がする。
もはやそれすら曖昧になるくらい、善という存在はあまりに長い間、常に私の隣にあった。
かと言って、別段仲が良かった訳でもない。
ただ当たり前のようにそこにいるから、此方も当たり前のように接していただけである。
空気のような存在と言った方がいいかもしれない。

その関係が崩れ去ったのは、高校卒業と同時だった。
私は東京の短大に進学した。
善は地元に残って、——彼は、バンド活動に励んだらしい。
らしい、というのはこの情報を人から又聞きしたためである。
高校卒業以来、私は善と一切連絡を取る事は無かった。
取る必要性が全く無かったからだ。
今何をしているのか気になることもあったが、そんな理由だけで連絡を取るほど、私たちは「お友達」な関係でも無かった。

その善が、突然連絡を寄越して来たのだ。
私は柄にもなく狼狽えた。
しかし、何事かと出てみれば、高校卒業以来何一つ変わらない素っ気ない態度と一方的な会話で、ほんの少しばかり喜んだ自分が馬鹿らしくなった。

しかし。
詳細に住所を聞いてきたということは、何かあるのだろうか。
重要な郵便物でも送られてくるのかもしれない。
…あの善が?という疑問は拭いきれないが。
一応、改めてメールで住所を送っておこうかと携帯を開いた時だった。
不意に、玄関のインターホンが鳴った。

「哀くん、今日も遅刻してきたでしょ」
「…なんで知ってんの?」

昼下がりの屋上。
晴れ渡った青空に、鰯雲が浮かぶ。
何をすることもなく寝そべってそれを眺めていた哀に、慣れたように愛はその横へと腰を下ろした。

「さっき、授業中に教室の窓から見えたの。もう今月で5回目でしょ?」
「そうだったっけな」
「駄目だよ、ちゃんと学校来ないと」
「はーい」
「…むう」

聞く耳持たずといった態度の哀に、愛も眉をひそめて口を尖らせる。
先程職員室に入った時、生徒指導の先生達が哀について噂していた。

素行が悪い。
言うことを聞かない。
問題児。
社会不適合者。
迷惑ばかりかける。
手に負えない。

その言葉のどれもが、愛を傷つけた。
どうして自分が悲しくなるのか、愛も分からなかった。
ただ、哀のことをとやかく言われることに、ただただ腹が立った。

けれど当の本人はどこ吹く風といった様子で、こうして今も授業にも出ず屋上で暇を持て余している。

「どうして学校来ないの?」
「んー、…………朝起きれないから」

含みを持たせた言い方に少し疑問が過ぎったものの、返ってきた答えはありきたりなものだった。
なにそれ。と愛はまた膝を抱えてしまう。
その時不意に、愛の脳裏にある考えが浮かんだ。

「それじゃあ…私がモーニングコールしてあげる!」
「……は?」
「哀くん、携帯番号教えてっ。そしたら私、毎日ちゃんと朝起こすから!」
「いや…」

これには哀も思わず、眉をひそめずにはいられなかった。
しかし愛自身は至って真面目に、それこそ名案だと言わんばかりに顔を綻ばせながら此方を覗き込んでくる。
馬鹿馬鹿しいほど真剣なその目つきに、哀は何だかむず痒くなって、小さく笑みを零した。

「…それ、新手のアドレス入手方法?」
「ち、違っ…!そんなんじゃなくてっ」
「はは、嘘だよ。…じゃあ、お言葉に甘えちゃおーかな」
「ほ、本当!?」

顔を赤らめながら素直に喜ぶ姿が、先程からコロコロと変化する表情が、哀にはたまらなく眩しく見えた。

「(こいつ、ちょっとだけ下心あったな?)」

言われてから気付いたのかもしれないが。

それからズボンの腰ポケットから携帯を取り出すと、ほら、と赤外線受信部を愛へと向けた。
愛も慌てて携帯を取り出す。
携帯を向け合ったまま、微かな操作音だけが流れた後、画面には「赤外線通信中」の文字が並んだ。

「これでもう遅刻しないね」
「んー、そうだな」
「そしたらさ、哀くん」
「ん?」

「またここで、一緒にお話しようねっ」


ピロリン。
画面には「受信完了」の文字が浮かぶ。

「よし。じゃあ私のアドレスも送るね。」
「………」
「…哀くん?」

ハッとして、哀はとっさに顔を地面へと背けた。

「え、ど、どうしたの?」
「いや、……眩しくて」
「もう、寝っ転がってるからだよ」
「ああ…そう、だな」

むくりと体を起こす。
携帯画面には再び、「赤外線通信中」の文字。


「(日差しじゃねーよ、馬鹿。)」


そんな台詞は口から出ることなく、喉の奥で消えていった。


「やっぱり人間、ギャップが重要だよね」

突然ぽつりと竹内が呟く。
同じテーブルに座る愛と三つ葉は声の方へと振り向いた。

「どうしたの突然。とりあえず全力で同意はしとくけど」
「まあねえ、女は特にそれに弱いわよね」
「でも男の人にもそれはあると思う訳ですよ」
「そりゃあ、まあ、あるんじゃない?」
「そこで一計、考えたわけです」
「ごめん竹内、話の全貌がまったく見えてこないんだけど」
「うむ。三つ葉さん、ちょっといいですか」
「ん、何かしら」

三つ葉に竹内が何やら耳打ちする。
置いてきぼりにされた愛はただ頭の上に「?」を浮かべて、手元の抹茶フラペチーノを啜った。

「なるほどね。うん、いいわ。協力してあげる」
「流石姉さん!」
「もー、何なのよー。感じ悪いよ」
「…愛さん、来月は何月でしょう」
「? 2月だけど」

訝しげに眉をひそめる愛に、竹内と三つ葉がにまーっと意地の悪い笑みを浮かべた。

「え、ちょ、何なの、二人とも怖いんだけど。え…え!?ちょ…!」
「いいから、」
「来なさい!」
「ちょ、なんなのーー!」

両脇を抱えられ連れ去られる愛。
虚しい叫びだけがカフェに響いた。




それから数日後。

「あ、」
「い、」
「「くんっ」」
「………な、ナンデスカ」
「「誕生日おめでとー!」」
「…!」

引きつった笑みを浮かべる哀に、竹内と三つ葉がクラッカーを鳴らす。
突然のことに目を丸くする哀だが、すぐに笑顔に変わった。

「ありがとう。覚えててくれたんだな」
「というわけで哀くん」
「少し、後ろを向いててくれるかしら」
「は?」

いいからいいから、と半ば強引に後ろを向かされる哀。

「3つ数えたら、後ろを向いてね」
「は、はぁ」

背後ではバタバタと賑やかな声が聞こえる。
振り向きたい気持ちを抑えて、哀は数え始めた。

「1、」

「2、」

「…3」

恐る恐る後ろを振り向く。
慌てて部屋を出て行く足音と、勢いよく扉の閉まる音。
それをバックに、照れくさそうに佇む愛。
見たこともない清楚な姿で、頭には真っ赤なリボンをつけて。

「あ、あのね、いや、その、二人が、『ギャップだギャップだ』って言って…」
「………」
「私は、やめた方がいいって言ったんだけど、三つ葉さんがわざわざデザインまでしてくれてね、だから、えっと…」
「………」
「ご、ごめん。似合わないよね。あの、これ、哀くんに誕生日プレゼント」
「…いや」
「え」

顔を上げる愛。
振り向いた時のまま固まって、耳まで赤くなった哀。

「すげぇ…可愛い」
「…!」

それを受けて、同じく真っ赤になる愛。
お互い俯いて無言になる。

「…ありがとな」
「うん…!」

扉の向こうで聞き耳を立てていた二人が、静かに親指を突き立てあった。







「(…にしても、)」

改めて愛の頭のリボンを眺める哀。

「(これは一応、プレゼントととっていいんだよな)」

その口元に意味ありげな笑みが浮かんだ。

「おかあさん、わたしこれがほしい。」

「あら、それはダメよアンタ。」

「どうして?きょう、わたしのたんじょうびじゃない。」

「そうだけど、だってアンタ、―――アンタの体じゃ、この服入らないでしょ?」







「―――……。」



ゆっくりと目を開ける。

窓から差し込む朝の日差しが眩しい。

まだ眠り足りない気だるい体を無理やり起こして、私は大きく欠伸をした。



「なんてまた、懐かしい夢を…。」



先ほどまで見ていた光景を思い出して、一人ため息をつく。

小さい頃、私はおもちゃ屋に売っている「シンデレラ変身セット」が欲しくてたまらなかった。

それで思い切って誕生日に母におねだりしてみた結果がアレである。

母のあまりの正論に子どもながらに納得してしまったのを今でも覚えている。

覚えている、が。



「今更そんなこと思い出させないでよねー、もー。」



こんな夢を見せられては、朝からテンションも下がるというものである。

結局、子どもの頃から大きかった体格は、大人になっても変わらなかった。

むしろ悪化したかもしれない。

思春期の頃のように半狂乱になるほど気にしているというわけでは無くなったが、まったく無頓着になったわけでもない。

周りにどうこう言われるのはいい加減慣れたが、自分で自分の首を絞めるとなると、話は別である。

嫌な気分を払拭するために洗面所で顔を洗えば、少しだけサッパリした。

それから眼鏡をかけて、髪を整えて、朝食の用意をする。

ゆっくりとした休日の朝、いつもよりは多少長く眠れたものの、寝た時間が遅かったからか、まだ少し寝足りない心地もする。

ちらりと室内へ目をやれば、未だ山積みとなったダンボールの塊が嫌でも視界に入ってきた。


社会人2年目の春、私はついに、夢だった1LDKマンションに引っ越すこととなった。

短大時代からの狭いワンルームマンションに別れを告げて、郊外のちょっとオシャレなこのマンションにやってきたのがつい一週間前のこと。

一応、大体の荷物は片付いたものの、それでもまだまだ減らないダンボールの山に、さてこれからどう収納していこうかとため息が漏れる。

昨日寝るのが遅くなったのも、荷物を片付け続けていたからなのだ。


思い出したようにテレビをつければ、朝の情報番組のキャスターが笑顔で星座占いを告げていた。

今日は時間がたくさんあるから、この機会に一気に終わらせてしまおう。

…こんな天気のいい日に散歩に出れないというのが、少し残念ではあるが。



「よーし、これ食べたら頑張るかーっ」



気合い入れも込めてうんと一つ伸びをしたところで、不意に携帯の着信音が鳴り響いた。

放課後の教室。

誰もいない静寂の中、机に肘ついて、静かに目を閉じる。


哀愁漂うギターソロ。

悲しげなメロディがイヤホンから鼓膜へと伝わってくる。

そこから打って変わって流れ出る、激しい重低音。

それは低く、低く、慟哭のように流れ続ける。

そこから静かに、ボーカルの囁くような唄が聞こえてきて、


世界は、小さなイヤホンに挟まれた中で閉ざされる。



「竹内ー」

「へあっ」



トントン、と背後から肩を叩かれて、突然意識は現実に戻される。

慌ててイヤホンを外して振り向けば、愛さんがきょとんとした表情を浮かべて立っていた。



「あ、ああ、ごめ、え、うん。」

「ちょ、大丈夫?竹内。」

「愛さん…学校に化粧してきたの?」

「は?ちょっと本当にどうしたの竹内。」

「え。」



よくよく見れば、愛さんは制服も着ていないし、随分と大人びた気がする。

更に、周りに広がるのは教室ではなく、見覚えのあるスタジオの景色だった。

段々と、頭が冴えてくる。

そうだ、今日は、新作のミニアルバムの収録で朝からスタジオ入りしてて、今は昼休憩で…



「あ、あーあーあー、ごめん、ちょっと寝ぼけてたみたいだわ。」

「あー良かった。竹内が頭おかしくなったのかと思った。」

「ごめんごめん。で、どうしたの?」

「ああ、コーヒー飲もうと思ったんだけど、竹内もどうかと思って。」

「ありがと。じゃあブラック一つお願いします。」

「はいはーい。」



笑顔を浮かべて、愛さんが入り口近くのコーヒーメーカーへと歩いていく。

それを見届けて、手元に持ったままだったイヤホンと音楽プレイヤーを片付けた。


珍しい。音楽を聴きながら居眠りするだなんて。

今まで一度もなかったことだ。

疲れているんだろうか、と頬を掻く。

音楽プレイヤーの液晶には、昔から聞きなれたロックバンドの名前が映っていた。


音楽が、バンドが、好きになったのはいつ頃だっただろうか。

中学のときに、1つ好きなバンドが出来て、高校の時に熱狂的に嵌って、大学では色んなバンドに手出して、CD買い漁って、それから、社会に出て忙しくなって、いつの間にか音楽はBGMとしてしか聴かなくなっていた。



「そういえばこのバンド聞いたのも数年ぶりくらいだなー。」

「何ー?なんか言ったー?」

「いいえー。なんでもないよー。」

「ふーん。」

「ただいまー。」

「あ、みんなおかえりー。」

「哀くんおかえりー!コーヒー飲む?」

「ちょ、それ私の…いやまあいいけど。」



一気に人口密度が増したスタジオ内が、がやがやと騒がしくなる。

ほどよくリフレッシュ出来たらしく、皆の顔からは疲れが取れていた。



「よし、じゃあ気分が乗ってるうちに次の曲、撮っちゃおうか。」

「「はーい。」」



わらわらと防音室内へと入っていくメンバーたち。

程なくして、ギターとベースの電子音が聞こえてくる。

コード進行と指の動きを確認するかのように途切れ途切れで聞こえてくるメロディに、こちらもミキサーの前に座り、ヘッドホンを装着する。

耳に伝わる、心地よい振動。

一度離れたはずの音楽に、またこうして触れる日が来るなんて思ってもいなかった。



悲しげな旋律。

叫ぶような音。

地を這うような低いベース音。


目を閉じる。

ああそうか、私、


音楽が、大好きなんだな。



「よし、じゃあ準備出来たらいつでもいいよー。」

「はーい。じゃあお願いします。」

「はいはーい。」



暫くの静寂の後、怒涛のごとく、新しいメロディが流れ込んでくる。


私はまた、静かに目を閉じた。







Rock'n roll music




「私、東京の大学に進学する。」


そうか、と抑揚無く返事をして、窓際の誰とも分からない机に腰掛けた。

進学。

ああ、そうだ。

こいつはずっと大学に行くんだと言っていたっけな。

前々から聞いていた話だ。

ただ、東京に行くというのは初耳だった。


「県内じゃないのか」

「うん。就職をね、あっちの方でしたいと思ったから。」

「なら、」


――もう、こっちに帰ってくることは無いのか。


言いかけた言葉は、喉元まで来て食い止めた。

言って何になる。

言えば、何かが変わるのか。

馬鹿馬鹿しい。


「善?」

「お前の頭で行けんのか」

「酷っ。なんとか頑張るわよそこは。」

「どうだか」


当たり前のように、軽口が零れ出る。

違う。

それしか言えないのだ。

一体いつから、こんな関係になってしまったのか。

これもまた、思い起こすだけ馬鹿馬鹿しい。

あいつが参考書を鞄に詰め込んでいく。

最低限度の荷物しか入れていない自分の鞄に比べて、あいつの鞄はいかにも受験生らしく、参考書やら単語帳やらで溢れている。

目指す先の違いが、ここにも出ている。


「アンタはどうすんの?」

「・・・・・」

「やっぱりバンド、続けんの?」

「・・・・・・ああ」

「そ。アンタらしいねー」


こいつは何も言わない。

俺が何をしようと、どう進もうと。

俺がこいつの決めたことに何も口出ししないように。

近いようで、実は誰よりも遠い。

そんな矛盾した関係が、いつの間にか出来上がっていた。


「さてと、じゃあバイト行ってきますかね」

「・・・・・・」

「アンタは?まだ帰らないの?」

「・・・・・・ああ」


西陽が強い。

校庭を眺める目が、自然と細められる。

背中越しに、あいつが机から立ち上がる音が聞こえる。


「じゃあねー」


放課後の静けさの中に、教室の引き戸の音がうるさいくらいに響く。






「 行くなよ 






あいつの足が、ぴたりと止まった。


「え?なんか言った?」

「別に」

「そう?」


改めて、引き戸が閉められる。

西陽は相変わらず強い。

教室にはもう、誰もいない。

帰っては、来ない。


強さを増す日差しに、立ち込める静寂に、振り向けなかった身体に、何もかもに苛立ちを覚えて、軽く舌打ちをする。

ずいぶんと軽い鞄をひったくるように担ぎ上げて、そのまま駆け出すように自分も教室を後にした。





あああああああ


テストテスト


「ああああああああ」






あああああ



あああああああああらららら




あああああああああああああああああああああ




あああああああああああああああああ




あああああああ

qqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqqああああああああああ







げげげげげげ




ミーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!










てすとてすと

                     てすと

                                      てすと