保証があるわけではないが(すくなくとも俳句や和歌そして伝承物語などを読むかぎりでは)
昔の人間というのは、きっと空ばかり見上げていたのではないかと思う。

私の浅い浅い文学知識でも、
空(とくに夜の空つまり星や月)、またそれらに言及したり例えたりした和歌や俳句というのは驚くほど多い。


  例えば
 「名月や池をめぐりて夜もすがら」
というのは、芭蕉の有名な句だが、

落ち着いて考えてみるとちょっと待てと言いたくなる。

確かに、繁華街の光に邪魔されることもない時代の満月は、
あたかもこの手の届く距離にあるかのごとく、さぞかし見事だったのだろう。


しかしだからといって「夜もすがら(=一晩中)」ってのはどうなんだ。


「明るい夜だ。そうか今日は満月であるのだなあ」
と芭蕉クンは思ったのだろう。

余談だが、俳人というのはだいたい「~だなぁ」という観点を持つというイメージがある。

ちなみに「~だなぁ、一句詠もうか」となるのが俳人、
「~だなぁ、まあいいや寝よう」となるのが廃人、
「~やんけ!よっしゃツイートしよ!」となるは、ツイッター廃人である。
あと、「猫になったんだよなぁ」というのは、あいみょんである。



 「しかし見事な月だ。秋の月は春や夏のそれとはまた違った趣があるのだなぁ」

芭蕉クンはきっとそんなふうに風流を解したに違いない。
これほどの名月これほどの感動、一句残すにまさにやぶさかでなしと、
その両目に月の光を宿しながら一つ頷く俳聖であったはずだ。

ここから芭蕉はほんの少しだけおかしくなる。

 「つるべ落としの満月、可愛い。」などと1日に何度もツイートする
なんてこともできない時代にいったい何があったのか。
芭蕉クンはいきなり壊れてしまうのだ。

彼は足元の小さな池のまわりをものすごい勢いでぐるぐる回る。
「ああ月だよ。ちくしょう、池に映っちゃってるよ月。くそー、名月だよ」

そうしてぶつぶつ言いながら相変わらずの勢いでひとしきり池を回ったのち、彼は一つの事実に気付いてやっと正気を取り戻す。

「…あれ、朝か」


一番鶏の声に正気を助けられたのが朝の五時、
月を眺めはじめたのが前夜の七時だとすれば、
芭蕉は実に十時間もウロウロと月を見上げ続けていたことになる。


どれだけの名月だったのかは知らないがちょっと度が過ぎているのではないかと。
 「『池をめぐりて夜もすがら』…と」
  と、じゃないだろ。一句仕上げて満足したのはいいけども、
月を眺めてうっかり徹夜なんかして今日の生活はいったいどうするつもりだ。
これから寝るのか。そういうのを廃人って言うんだぞ。深夜勢つながろ!じゃねぇぞ。
なんか今日はツイッターへの言及がやたら多いな。


そう、風流な出来事には馴染みであるはずのかの俳聖芭蕉ですら、
月に魅入られ我を失い、つまりは我慢できなかったのだろう。

どうやら星や月の出た夜の空には何か、人間程度には抗しがたい魔力のようなものがあるらしい。


しかし、それは何も昔日ばかりの話ではない。
現代においても星の魔力は健在で今なお世界を席捲しているようで、それを証明する一つが七夕だ。

もはや誰もが知っている通り七夕には織女星と牽牛星との逢瀬という伝説が残っている。
単なる自業自得とはいえ非情にも引き裂かれてしまった織姫と彦星が、一年に一度だけ天の川で逢えるという話だ。
二人が普段どれだけこの日を心待ちにしているかは想像に難くなく、悲恋への叫び声すら感じられるだろう。
だが実際、二人が一年を耐えた末のその当日に、空を見上げる地上の者たちは何をするか。

 「自転車にのれるようになりますように」

どれだけ鬼なんだおまえらはと。
なぜ一年に一度しか逢えない不幸な境遇の者たちに自分勝手な願いを託すのだ。
彦星は補助輪扱いか。奴らは奴らで大変なのだ、だいたい他人の願い事を叶えられる神通力が備わっていたら、
その力でもって一年に少なくとも六十三回ぐらいは逢えるはずだと思わないか。

そのへんの疑問を全部すっ飛ばして自らのお願いだけに夢中になってしまうあたりが、星の生み出す魔力とも言えるのではないか。


そう、考えてみれば厄介なのがこの「星に願い事をする」という概念である。
どこからどう始まったものなのか寡聞にして私は詳しくないが、
いずれにせよ星の立場としてみればこれもなかなかの意味不明さ加減だろう。

それでも、流れ星といえば願いをかけるという行動は
七夕と同様に普遍的な当然としてまかり通っているように思う。


しかし流れ星とは実際何であるか、
私の怪しげな知識によるとそれは確か、
宇宙を漂う塵などが地球の大気との摩擦を起こしたゆえに光を伴って燃えたものであったはずだ。

であれば見方を変えれば、流れ星は被害者だということではないか
うっかり地球の軌道と接触してしまったばかりに、たかが大気によって存在そのものを抹消されようとする被害者だ。
その炎に包まれた被害者に向かってさあ私の願いを叶えてくれろと強要するのはやっぱりどう考えてもおかしいのではないか。
それは言うなれば、車との接触事故で今まさに苦痛に呻いている被害者に、
わざわざどうでもいいお願いをするのとそう変わりはない。


 「うう、あの車め。足が折れたようだ。ああ痛い」
 「あの」
 「ああ痛い痛い。歩けない」
 「大変ですね。ところで僕は彼女が欲しいので誰かかわいい子を紹介してください」

私だったら折れていない方の足でそいつを蹴り殺すし、それを咎める人もきっといないだろう。
ましてや、自転車に乗りたいなどと言い出す人間の人間性の方が疑われると思う。

それなのになぜ、人は星と見れば途端に願い事をしてしまうのか。
考えた末に私は「美しいから」ではないかと思った。

雄大な天の川を見上げたとき、
夜空を支配する程に大きい月を見上げたとき、
凛とした夜を駆ける、一瞬のきらめきを覗いたとき。

人は霊験のあらたかなるを感じてあやかりたくもなるのだ。
金キラ金の仏像を見たからといって「では記念にひとつ」とパイルドライバーを叩き込む人間はあんまりいない、
やはりそこに存在するのは拝むという行為ではあるまいか。そう、美しいからこそ願い事をするのだよ。

近年、日本人は何かに祈るということが少なくなったらしい。
それは、単に夜空を見上げながら散歩するなんてことが、
許されない世の中になってきたからだろうか。

それとも、手元にあるスマートフォンの光の方が、よっぽど美しいからだろうか。

僕は、初めて遠藤さくらを見たとき、
なぜか長年の夢や願いが叶うような気がした。
魔法みたいに、すべて、なにもかもしあわせなれるような気分になった。

きっとそれは、芭蕉クンが一晩中ぐるぐると考え続けてしまうよう
流れ星を見た人が、ついつい祈りをささげてしまうように

僕は遠藤さくらの美しさに、魅入られたのだと思う。

2021.01.05
かがやき

『遠藤さくら、可愛い宣言』