お花だーーーーーーーーいすきだよ!

皆様から愛を送ってもらえている気持ちになるから、本当にありがとう!!!! (原文ママ)

                                 (矢久保美緒 『赤く染めるわ』 より 2019)


たいていの人は、物事は本質を見極めた方がよいと思っている。ドリルが欲しいとか、本当は穴が欲しいだとか、それが誰の言葉かも知らないまま、なんとなく「見極めた方がよい」と思っている。


第一、本当の本質というものを見極めるのは非常に難しい。

ドリルを買う人は、穴が欲しいというよりも、人力で穴を開けるのは重労働で手間なので、納期を短縮するために作業を機械化したいから欲しいとも言えるし、より軽量な材料が欲しくて、材料に風穴を開けたいのかもしれない。


古代、物事の本質は火・風・水・土にあって、世の中はそれの組み合わせでしかないと考えられていた。でも、そこから時代が経って科学の進歩は、「原子」というつぶこそが、物の性質を決めているものだと確信した。


仮に、今、これを読んでいるあなたの目の前にあるスマホを、ハンマーでぶったたいて壊すとしよう。仮にだ、あくまで。

想像してみるだけでいい。


ぶったたいて、いくつかの破片に分かれるくらい思いっきり叩くとする。

そうしたら、その破片をまたぶったたく。

そうやってスマホを小さく、小さく、何回も根気よくぶったたいていこう。


一億回くらいぶったたくと、スマホはやがてハンマーでは壊せない一つの小さな小さな玉になる。


これが原子だ。例えばケイ素とか酸素とか、炭素とか、たぶんそんなの。

原子は、これ以上ぶったたいて壊せない、という意味では本質的なものだ。


まあ、これも実は人類の勘違いで、本当はもっとぶったたけば細かい粒子が何段階も出てくるのだけれど、それはさっき「本質を見極めるのは難しい」という話で理解していただけたと思うので割愛だ。


これが人間をぶったたいたら(倫理的な問題はおいておいて)どうなるだろう。矢久保美緒(ごめん)をぶったたこうが、俺をぶったたこうが、原子になってしまえばさほど違いはない。

そう、本質ってのは、「わかる」ためにはとっても重要だけど、現実的な行動においてはあんまり関係ないのだ。


とは言え、ものごとの理由を考えてみることに意味はある。


昔、京都のケータイショップの店員がこんな話をしてくれた。


ある日、ジジイが「カメラの綺麗なケータイをくれ」と言って店にやってきた。

時は主流がスマホになる前の時代、店員は「こんなジジイがなぜカメラ?」と思ったそうだ。

(失礼な話だが)


「カメラ、お好きなんですか?」と訝しげに聞くと、

「いやぁ、そんなに」とジジイは答えた。


そりゃあそうだ。時はスマホよりも前の時代、カメラが好きなヤツはカメラを買っている。

iPhone11でCMが撮影できるなんて、誰も思っていない時代の話である。


「なにを、お撮りになるんですか?」

「いやぁ、なに。最近孫が生まれたもんで」


店員はそれでも、少し納得がいかなかった。

孫の写真こそ、NEW EOS KISSで撮ればいいのにと。


「今日もお孫さんにお会いになるんですか」

「いやぁ、娘が東京なもんで」


なるほど。店員は納得した。

娘さんに写真を撮って送ってほしいってことだ。


結局、店員はテレビ電話の購入を勧め、ジジイは喜んで契約して帰ったそうだ。

彼はこう言い残した。

「今日は、ケータイショップを何件も回ったが、どこの店員も何画素だとか編集機能だとか難しい話でわけがわからなかった。でも、あんたはいつでも孫の笑顔をみたいという俺の夢を叶えてくれた。感謝してるよ」


だから、たぶんジジイに引越しは勧めなくていいんだと思う。

そりゃあ、老人特有のつまらない京都へのこだわりはやめて、子どものいる土地の近くに住んで、いざとなったら助け合って、みたいな生活が理想だけれど、やっぱりこの年になってからの東京暮らしは自信がない。。。だとか、そもそもその年でも自信がないのは会社でなかなか成果が出ないことをババアに毎晩イヤミを言われていたからで、そのせいで人の質問に答えるときには否定から入る癖がついたとか、


そんな「本質的」なことは、どうでもいい。


要は、一歩だけでいいから奥へ踏み出してみた方がいいってことだ。


そこには途方もない自由が待ち構えている。

そう、さっき本質を追い求めすぎると最終的にはなにがなんだかわからなくなってしまうという話をしたけど、それはまさに「自由すぎる」からそうなってしまうのだと思う。一個の炭素から、それが遠藤さくらになるのか、矢久保美緒になるのかを想像することは難しいのだ。


でも、自由っていうのは、そのまんま個性につながる。

普段何気なくやってしまうこと、

ましてや、「カメラのついたケータイをくれ」って言われたら、カメラの機能を説明したくなるのが普通だ。

それでも、かならず「なぜ」がそこにはある。


ブログコメントでも、モバメツイートでも、握手会でも、ライブでも舞台でも、ツイートでもハッシュタグでも。

「なぜ」は必ず自由への扉を掴んで待っていてくれている。


どうして、やるのか、どうして、しないのか。


そんなことを「ちょっと」でいいから、考えてみるだけで発想は広がり、豊かになるだろう。


きっとね。来年は一歩だけ、奥に進んでみよう



かがやき