気がつくとそこに
ポケットに手を突っこんで
センチメンタル通りを
練り歩く 17歳の俺がいた
『OMOIDE IN MY HEAD』/向井秀徳
音楽を聴いているとその曲をよく聴いていた時の風景や感情を思い出すことがある。
それは必ずしもよいものとは限らなくて、僕はGLAYの誘惑を聴くと、21歳くらいのとき、彼女に振られたときに帰りの中でイヤフォンからだらだらと流れていたのを思い出す。
ただ、別に大失恋というわけでもなく、まぁ、むしろ付き合ってくれてたのが奇跡だったよなぁと、そんな妙にすっきりとした気持ちだった。阪急電車の京都河原町行きは、特急と各駅停車の速度差がすごくて、特急なら40分で梅田-河原町間を駆け抜けるのに、各駅停車は倍以上の時間をかけて進む。だから、世の中の一体なににそんなに急いでいるのかわからない大人たちは、みな、こぞって特急に乗り、俺みたいなヒマな大学生は各駅停車に乗りながら、ロックバンドのくせにみょうちきりんなリズムが流れる曲なんかを聴いて過ごすのである。目の前には、大きめのリュックサックを抱えた大学生が、よれよれの紙袋を足元に置いていて、東京銘菓のロゴがしわくちゃになっているのが見える。反対の端っこには、小学生くらいの男の子ともっと小さい女の子を抱えたお母さんが、男の子にスマホを与えて黙らせているが、彼は本体よりも、ケースについている大きすぎるストーンが気になって仕方ないらしい。だから、僕が一番ここにいる理由がないな、と思いながらまたスマホに目を落としていた。別に悲しくはなかったけれど、誰からのLINEも返したくなかった。
そう、GLAYの誘惑を聴くと、この光景をハッキリと思い出すのだ。
それまであまり聴いていなかったし、それ以降も積極的に聞くことがなかったので、唯一の思い出がこれだからだろうか。
ちなみに、この話、本題とまったく関係がない。
つまるところ、思い出とは、なんでもないことの集合体なのかもしれない。
「今が思い出になるまで」という言葉がある通りだ。ようは、歴史とは記録ではないという話。
歴史には視点がある。起きた出来事のすべてが記録できるわけじゃないし、それは映像に残せば温度やにおいが、言葉に残せば語られなかったすべてのものが、なくなってしまう。
だから、たとえ他人の思い出を読んだり聴いたりしたとしても、そこに残るのは、読んだり聴いたりした思い出であって、その思い出自体が手に入るわけではない。
それが、「ライブ」が尊い理由であり、「ライフ」が一度しかない理由である。ちなみにボブマーリーは自分の親指を命よりも大事にした。文字通りの意味で。
けれども、思い出というのは、勝手にできるものではないと思う。
「何気ない日常」はかけがえのない思い出なのだが、それは「何気なく過ごしていてもいつか思い出はできる」という意味ではない。
精一杯生きて、感情を動かして、ココロを動かして、「今」のあらゆることを覚えておきたいと願って、それでも捨てなきゃいけない何かも確かにあって。
それで、毎日毎日を生きていたらその道のり(道程)が、振り返って眺めるのが大変なくらいの距離になっていて、元居た地点にはもう声が届かないんだなって思ったときに、
ああ、思い出になったんだな。
と感じるんだと思う。
だから、今を思い出にするためには、いっぱい歩かなくちゃいけないんだ、
毎日一歩一歩。引きこもってなんもしなければ、今はいつまでたっても思い出になんかなりやしない。
あの頃は楽しかっただなんて、思っているのは、ただ時間がたっただけの過去で、
ましてやその過去に「戻りたい」なんて思っているうちは、まだ、思い出にはなっていない。
「忘れられない人」なんて、思ってる時点で、まだ思い出にできてるわけがないのだから。
普段思い出さないことを、あえてなにかのきっかけで思い出したとき。
それを、思い出と名付け、心に記録しておくことが出来るのだと思う。
これで最初の話が、まったくの無駄というわけではなくなったかな。
秋元真夏現キャプテンが、白石麻衣御大のことを、双子!とまで思ったエピソードを、御大本人がよく覚えていなかった。でも、話を聞けばなんとなく覚えている気もする。そう、これがまさに思い出なのだ。
だって、この二人には重ねてきた道のりがたくさんあるから。
過ごしてきた多くの時間の中で一生懸命に関わりあって、ぶつかったりもして、そうやって築いてきたものが多くあるからこそ、「あぁ、そんなこともあったなぁ」と思う時が来る。
そのために人類は、悠久の時をわざわざ一年という無意味な線で区切り、記念日として思い出を作った。