かの夏目漱石は、月日を指折り数えた時のそのあまりの年月の経つのの早いのを「流光」と喩えて表した。
流れる光と書いて、月日と読ます。
なんともオシャレではないか。
ところが案外、そうでもないかもしれない。
光陰矢の如しという。
光と陰とは日と月という意味で、月日が逆になっただけの話である。
それでも、「流光」という言葉の美しさは変わらない。
それを思いついたことが、難しいことなのか・簡単なことなのか。
そんなことは、案外とどうでもよいのである。
月日の経つのに、敏感になった、と思う。
戦時中の日本では、結婚記念日を毎年と決めると、一度も結婚記念日を迎えないまま生活が終わってしまうことが多かったことから、毎月を結婚記念日とした。という話がある。
(6月がテーマの話だからね、このブログ)
1ヶ月が経つたびに、あぁ、この日を迎えることが出来た…と安心したわけである。
俺たちもそうかもしれない。
次の握手会まで…次のライブまで…
そうやって指折り数えて、安心して、生きている。
そうすると、月日の経つのに、敏感になる。
あと1ヶ月で握手会だ
あと1週間でブログ更新だ
あと1日でライブだ
あと1時間で番組が始まる…
そうやって生きていると
待ってる間は長かった日々が、
終わってみると一瞬の出来事だったように感じる。
そう、まるで輝く光のように流れてゆく。
夏目漱石は、案外と、単に光のように流れるからという単純な理由で「時間」を「流光」と表現したのかもしれない。
農民が人口の大半を占めていた古来の日本では、6月は仕事の月であった。
農繁期の彼らには休みはなく、またなにかをお祝いしようということもなかった。
だから6月には祝日がないし、またかつてあったことも一度もない。
結婚しなければジューンブライドも関係ないし
(ジューンブライドは単なる企業戦略だからやめておけという意見もあるが、そんなヤツはバレンタインチョコレートをもらう資格がない)
だから6月には、思い出がない。
指折り数えて7月の楽しみが来るのを待っていると、月日は流光のように過ぎ去って、やがて忘れ去られるのだ。
まぁ、俺たちアイドルオタクには、幸いにも6月にも思い出がたくさんあるので、この話は読み飛ばしてもらっても構わない。
単に、仕事続きの日々には記憶がない
くらいの話でいい
(というか俺がブログに書く話はぜんぶ、人生の大半のことに意味がないのだが)
光の速度は不変で
時間の速度は変化しうる要素を持っている。
しかし、時間というのは残酷なもので、光のように過ぎ去ってしまう。
そして、もう二度と追いつくことは出来ないのだ。
永遠に。
そうだからこそ
今日という日を意味あるものに出来るのはキミしかいないし、
日々を指折り数えて待つという恋は、
僕を早く大人にならせてくれる。
そういうもんなんだと思うね。
かがやき
光たちよ、この坂道、登れ。