なぜ、秋元康先生は「ヘミングウェイ」が好きなのだろうか。





そして、歌詞世界に登場する「ヘミングウェイ」と歌自体の主人公との関係は…??

僕は、こうなんじゃないかと思う
秋元康先生にとって「ヘミングウェイ」とは
「強さ」や「行動力」の表れなんじゃないかって。

ヘミングウェイ初期の名作『誰か為に鐘は鳴る』では、主人公は戦争を戦う兵士だ。ものすごく行動力と責任感があり、自分のためではなく、それ以上の大きさのもの“大義名分”に向かって行動している。
しかも、最終的に、彼が負っている任務は、「無意味」だと判明する。

無意味なのだ。自分の国(正確には内戦が舞台なので国同士の戦いではないのだが)のために一切ならない。
しかも、彼はその作戦で死ぬ。
命さえかけられるのだ。大義のために。
(ちなみに、『転がった鐘を鳴らせ』は、無意味になってしまった鐘を必死で鳴らせ!という趣旨の歌である)

負傷し、逃げ遅れた主人公は
どうすれば死を受け入れられるのか
ということを必死で悩む。
もう差し迫った死がそこまで来ているのに。

そこで、彼は愛する者と仲間たちを逃がす。
という選択をするわけである。

しかも、黙ってやられるわけじゃない。
最後に残った銃で、せめてもの時間稼ぎをする。

ものすごい勇気と行動力ではないか。
映画版でそのシーンの名ゼリフも印象的だ。

「僕は君の中に生きている。さよならじゃないんだよ」

そう、まだ死んでないのに。
本当に強くてカッコいい主人公と
その内面にある悩みや葛藤が実にスパッと、明確に描かれている。

ヘミングウェイとはそういう作家である。

一方で
『バレッタ』や『図書室の君へ』の主人公は、基本なんもしない。
女子を遠くから覗き見ているだけである。

だからこそ
「君が読んでいるものが知りたい」のかもしれない。

ヘミングウェイなんて読めるあの子はすごい
自分も読んでみたいけど…

そんな憧れの気持ちが「ヘミングウェイ」の強さに集約されているんだと思う。

たった一言かける勇気さえない僕と
愛する者のためなら命さえ投げ出して守りきれるヘミングウェイ。


「性格が真逆だ」
でも、真逆だからこそ
外が暗くなってきたことにも気づけるし、エアコンの設定温度を譲ってあげることも出来る。

そんな少し言い訳も含んだような
優しさが僕たちにはあるね。

アーネスト・ヘミングウェイの自宅には今でも
彼が飼っていた6本指の猫(正確にはその子孫)が生きている。

「はみ出し者」に優しかったヘミングウェイは、
きっと俺たちにも優しくしてくれると思う。

俺たちも世間からすれば、設定温度が高すぎる人たちかもしれないけれど、
それでも、せめて6本指の猫たちになれたらいいね。

これが僕の図書室の君への聞き方。