「十三里」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。
「距離」と捉えて計算すれば約50キロだが、
実はサツマイモの別称でもある。
その由来の一つは、サツマイモの産地・埼玉県川越市が、
江戸から十三里離れており、そこから江戸へやって来る焼き芋売りが、
「十三里」と呼ばれたことによる。
焼き芋売りは「栗(九里)より(四里)うまい十三里(9+4=13)」という、
しゃれを利かせた口上で売っていたとも伝えられる。
「芋」「いも」は御書にもたびたび登場するが、
この時代は主にサトイモやヤマイモを指す。
日蓮大聖人は、門下が供養したイモを、
「くらき夜のともしびにもすぎ・かはける時の水にもすぎ」(1535ページ)、「珠のごとし・くすりのごとし」(1537ページ)と心からたたえられた。
大聖人の御闘争と広布を支える供養は、
暗い夜の「ともしび」や喉が渇いたときの「水」よりも貴重であり、
「珠」「くすり」のような存在との仰せだ。
もちろん、供養は品物とは限らない。
広布のために行動すれば、
自身の「時間」や「労力」を供養していることになる。
広布に尽くす真心は、全てが福徳無量の「供養」となり、
自身と一家の未来を大きく開いていく。
その功徳をあらためて確信しつつ、一年の総仕上げへ前進したい。(道)
名字の言>2019.12.13
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〈心に御書を〉12
“小事が大事”絶対無事故で2019年12月14日
「阿仏房尼御前御返事」 日蓮大聖人御書全集P1303
御文
なはて堅固なれども蟻の穴あれば必ず終に、
湛へたる水のたまらざるが如し
通解
畷(田のあぜ道)は堅固であっても、蟻の穴があれば、
たたえた水が結局は溜まらないようなものである。
~池田先生が贈る指針~
寒さ厳しく慌ただしい師走。
体調を崩さず、火災や交通事故など絶対にないよう、
細心の注意を払いたい。
「小事」が「大事」だ。
「自分は大丈夫」「これぐらいなら」という、
油断と慢心が“蟻の一穴”となりかねない。
無事故こそ幸福の土台。
強盛な祈りを根本に、皆で声を掛け合い、一年の有終の美を!
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聖教 ~きょうの発心~ 2019年12月12日
崇峻天皇御書 1173ページ・編1038ページ
御文
人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、
百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは
生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ
通解
人間に生まれることは難しく、爪の上の土のようにまれであり、
その身を全うするのは難しく、草の上の露のようにはかない。
120歳まで長生きしても悪い評判を残して終わるよりは、
生きて一日でも名をあげることこそ大切である。
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「妙一尼御前御消息(冬必為春事)」日蓮大聖人御書全集P125
~通解~
「南条兵衛七郎殿御書」 日蓮大聖人御書全集P1494
~ 通解 ~
"Encouragement to a Sick Person", 78p
However great the good causes one may make, or even if one reads and copies the entirety of the Lotus Sutra a thousand or ten thousand times, or attains the way of perceiving three thousand realms in a single moment of life, if one fails to denounce the enemies of the Lotus Sutra, it will be impossible to attain the way
「真言諸宗違目」 日蓮大聖人御書全集P139
仏法を壊乱(えらん)するは 仏法の中の怨(あだ)なり慈(じ)無くして
詐(いつわ)り親(した)しむは即ち 是れ彼が怨なり彼が為に 悪を除くは即ち 是れ彼が親(しん)なり
~通解~
仏法を壊り乱すことは 仏法の中のかたきとなる行為である。
仏意に背く謗法を放置せず、厳しく糾弾することこそ
~池田先生の指導~
謗法呵責といっても、その根本「慈悲」からの行為なのかどうかです。
謗法を呵責するのは、瞋恚や敵対心などではなく、
「四 条 金 吾 殿 御 返 事」日蓮大聖人御書全集P620
「法華経に云はく『若し善男子善女人、我が滅度の後に能く窃かに一人の為にも 法華経の乃至 一句を説かん。
当に知るべし 是の人は則ち如来の使ひ 如来の所遣として 如来の事を 行ずるなり 』 等云云。
法華経の一字一句も唱へ、又人にも語り申さんものは 教主釈尊の御使ひなり。
然れば日蓮賎しき身なれども
教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来たれり。
此を一言もそしらん人々は罪 無間を開き、
一字一句も供養せん人は 無数の仏を 供養するにも すぎたりと見えたり」
~通釈~
法華経に 「若し善男子、善女人があって、我が滅度の後、
僅か一人の為に、法華経の一句なりとも 説くものがいるならば、
その人は則ち、如来の使いであって、
如来の所遣として 如来の事を行ずる者である 」 と云われているように、
法華経の 一字一句を唱え、若しくは人に説き聞かせる者は、
教主釈尊の御使いである。
したがって、日蓮は賎しい身ではあるが、教主釈尊の勅宣を蒙って、
法華経を弘める為に日本国に生まれた者である。
それ故、たとえ一言でも 日蓮を謗る人々は 無間地獄に堕ち、
一字一句でも供養する人々は、無数の仏を 供養するにも 勝れている。
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