ある中学校の吹奏楽部の練習を 見学したことがある。
町で唯一の中学校で、部員も初心者が多い中、新たな顧問になって数年のうちにコンクールで日本一に上り詰めた。
さぞかし特別な指導法があるのだろうと興味津々でいたが、その期待はあっさりと裏切られた。
見た目の練習は、多少でも吹奏楽をかじった人にとっては当たり前の内容ばかり。
「秘術なんてないですよ」と笑う顧問の言葉が信じられず、部員たちに話を聞いて回り、ようやく答えが分かった。
一つは「○時から全体練習」と板書された「○時」の意味。
それは“集合時間”ではなく、皆が個人練習を終えて、最高の状態で全体練習に臨む“開始時間”を指していた。
各人が“自分をピークに導く練習法”をあみ出しているという。
もう一つは「何のため」を自分でとことん考えること。
“この練習は何のため”から、“何のために私は部活動を頑張るのか”などにも及ぶ。
「広く、深い目的観を持つ自分づくりのためです」と顧問は教えてくれた。
日々の勤行・唱題、毎回の訪問・激励も一見、同じ行為の繰り返しに思える。
だが、その一回一回に「臨終正念」の思いで真剣に臨み続けた人は、
人間革命の実証に輝き、友の心を変え、
時代や社会を希望と幸福の方向へ変革していける。
名字の言>2018.5.1
*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
「妙密上人御消息」日蓮大聖人御書全集P1240
南無妙法蓮華経と高声によばはりて二十余年をふる間(あいだ)・或(あるい)は罵(の)られ打たれ或は疵(きず)をかうほり或は流罪に二度死罪に一度定(さだ)められぬ、其(そ)の外の大難数をしらず
~通 解~
(日蓮は)南無妙法蓮華経と高声(こうしょう)に題目を唱えて、
二十余年を経(へ)た。
その間というものは、あるいはののしられ、あるいは打たれ、
あるいは傷(きず)を受け、また流罪(るざい)には伊豆(いず)、
佐渡(さど)と二度あい、さらには一度、竜(たつ)の口の法難
(ほうなん)という死罪(しざい)に定められたのである。
それ以外の大難は数知(かずし)れない。
~池田先生の指導~同志への指針
立宗のその日から、妙法流布に一身を捧(ささ)げ、
幾多の大難を越えられた 大聖人の御振る舞いが
偲(しの)ばれてならない。
「末法の一切衆生を救う」との大誓願。
「民衆を不幸にする邪悪は許さない」との大情熱。
「いかなる苦難にも屈(くっ)しない」との大確信――。
我らには、この宗祖の大闘争に連なる誇りがある。
「師子王の心」で世界広宣流布と立正安国(りっしょうあんこく)の万年の大道を開きゆくのだ。
*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
「聖愚問答抄」日蓮大聖人御書全集P497
只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉(たてまつ)らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福(さいわい)や有るべき、真実なり甚深(じんじん)なり是を信受すべし
~通解~
ただ南無妙法蓮華経とだけでも唱えるならば、滅(めっ)しない罪(つみ)があろうか。訪(おとず)れてこない幸福があろうか。このことは真実であり、極(きわ)めて深い法門である。これを信受(しんじゅ)すべきである。
~池田先生の指導~同志への指針
全ては「祈り」から始まる。
真の祈りとは、漠然(ばくぜん)とした願望などではない。
「断じて成(な)し遂(と)げてみせる!」という深き強き
「誓願(せいがん)の祈り」だ。
それが自分自身の崩(くず)れぬ境涯(きょうがい)を開くのだ。
題目の功力は、宿業(しゅくごう)を転換(てんかん)し、
福徳(ふくとく)を呼び起こす。この真実にして甚深(じんしん)なる妙法を信受(しんじゅ)して進むのだ。
真剣に唱題し抜いた人は、いかなる苦難があっても、最後は必ず勝つ。
*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
リンク、修正しました。飛べるようになりました。
*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
ランキングに参加しています。
*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
誹謗中傷、批判が目的の方へ向けて 書くことは、
今後も、一切ありません。ご訪問を、お断りいたします。
* 詩をはじめとする当ブログサイトの全ての記事の著作権は放棄していません。無断使用、無断転載をお断りします。コピーも含む。
~蓮華~
*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*