唐の詩人・白居易に「点額魚」という詩がある。
登り切れば 竜になれるという、
「竜門の滝」の故事にちなんで 詠んだもの。
「点額」とは“額に傷を受けること”を指し、点額魚は、
滝を登り切れず、岩に打ち付けられて 額に傷を負った魚のこと。
その魚の気持ちはどんなものだろうと 白居易は自問した。
「聞けば、竜になれば、天に昇って 雨を降らせる苦しみがあるそうだ。
そんな苦しみをするよりは、永く魚となって自由に泳ぎまわっているほうが、あるいはかえって、ましかもしれない」
(佐久節訳註『白楽天全詩集2』日本図書センター)
大きな壁に挑み、背負わなくてもよい 苦しみを背負うより、
今いる場所で 自由に生きているほうが幸せなのではないか――
人生の岐路にさしかかった時、誰の胸にも湧いてくる微妙な心を、
詩人は表現したのだろう。
しかし池田先生は、この詩を通し、論じた。
「竜は竜なりに 雨を降らす労苦がある。
この労苦を苦悩ととるか、使命ととるか。
この違いが、悪知識に敗れるか、成仏かの違いになる」
「法華経の修行を 完成させていくということは、
より多くの人々の悩みを背負い、
より大きな困難に立ち向かう使命を、喜び勇んで担うことだ」と。
立正安国の 大理想に挑み立つ。
そこにこそ 人間革命の道が開かれる。(朋)
名字の言>2017..
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「わが友に贈る」 2017年9月28日 池田先生
「賢者はよろこび 愚者は退く」 御聖訓。
喜び勇み立つ心で 烈風をはね返そう!
誉れの人生を共に!
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「御義口伝」 日蓮大聖人御書全集 P788
我心(わがこころ)本来の仏なりと 知るを即(すなわ)ち
大歓喜と名(なづ)く 所謂( いわゆる)
南無妙法蓮華経は 歓喜の中の大歓喜なり
~通解~
自分の心が 本来の仏であると 知ることを、
すなわち 大歓喜と名づける。
いわゆる南無妙法蓮華経は、歓喜の中の大歓喜である。
自身の中に 仏の生命があると知り、題目を唱えることこそ、
最高の歓喜である、との仰せです。
~ 池田先生の指導~
「我が心」が「本来の仏なり」と知るとは、
この我が生命こそが、大宇宙の根源の法則と合致した、
最も尊く、最も強く、最も賢い、究極の実在であると、
目覚めることです。
題目を唱えていく人は、自分自身が妙法の当体として、
「歓喜の中の大歓喜」を躍動させながら、
最高に充実した 大勝利の人生を飾ることが できるのであります。
自分が思っている以上に、わが生命は尊い。
無量の宝を秘めている。
「勇気ある信心」があれば、自らの可能性を
もっともっと解き放ち、輝かせていくことができる。
「最高の歓喜とは、どういうことか。
自分が歓喜して、その喜びにあふれた姿を 見た人までが、
同じ喜びに 燃え立っていく。
これが歓喜の中の大歓喜ということです。
利己主義の喜びではありません。
人をも同じような歓喜の境涯に、歓喜の生活にあらしめていく、
その歓喜が大歓喜です。
偉大な挑戦の人生は、苦労も苦難も突き抜けて、
偉大な歓喜の境涯に到達する。
妙法を唱え、広宣流布の大願に生き抜く生命は、
最高無上の大歓喜に包まれるのだ。
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