小説・雪の十字架④

 

副題=ジャンヌ・エビュティリュヌより、あなたへ

 

母の死の謎

 

父から、千恵と三人で中杉通りを歩いてみたいと誘いを受けたのは二週間ほど前だった。

伊関多恵は父からの不意の電話で驚いたが、快く承知した。父と会うのも、千恵と会うのも、四年ぶりかと思われた。妹の千恵が青学(あおがく)の短大に進むことになって、沖縄から上京した父とその妻、上川千鶴と千恵に四年前の三月、会って以来だった。

千恵が短大を卒業したあと、女優を志して、下北沢の或る有名な俳優が主宰する劇団で研究生をしていることは知っていたし、また、同じ阿佐ヶ谷に住んでいることも父から聞いて知っていた。しかし、同じ屋根の下で暮らしたことのない姉妹だった。改めて会うというのも何だか気が退けて、声がかけにくかった。

気がついたら四年が過ぎて、父が改めて三人で会おうと言うのはおそらくこの辺で自分と千恵の仲を取り持っておこうという父の心づもりかと、多恵は思った。

父と別れたのは三歳のときである。父に愛人ができ、二年あまり、母が心痛で苦しんだあと、軽井沢の別荘にホストクラブのホストを連れ込んで、愛のない一夜を過ごしたあと、雪の軽井沢に飛び出し、早朝、旧軽に近い聖パウロ教会の前で、雪の中から、真裸に近い格好で、死体で発見されたと聞いたのは高二のときだった。

多恵はそれを祖父母から聞かされたとき、一瞬、心が凍る気がした。あまりにも寂しい死だと思ったからである。雪の中で、真裸に近い格好でというのは何という寂しい女の一生の終わり方だろう。ましてや母はキリスト教の熱心な信者で、毎夜、聖書を枕元に置いて、読んでいたというではないか。その母が狂ったように雪の軽井沢に飛び出し、おそらくは一時間も歩いて、教会の前の雪の中に埋もれて死んだのだ。

多恵はその狂気のような行動の原因は何なのだろうと考えた。

当初、警察では一緒にいた男を怪しんで、参考人として取り調べたようだが、男の話しだと、早朝、突然、わめき出し、玄関を開け、戸外へ出、あっという間に雪の中へ消えたと言う。それで、三十分ほど探したあと、どうしても見つからないので、警察へ電話した。

警察では付近を探すうち、あっさり、二十分ほどで、旧軽に近い聖パウロ教会の前で、深い雪の中で前のめりになり、死んでいたのを発見したと言う。

死体は下腹部を覆う下着一枚で、他には何も身につけていなかった。

結局、事件性はなく、警察も事故か自殺か発表を迷ったが、事故とするにはあまりに自発的な本人の行為ということで、発作的ではあるけれども、自殺とするしか判断のしようがないという最終判断が為され、母の行為は自殺ということで、二日後の朝刊に小さく載った。

多恵は高二でその話しを聞いたあと、当時の新聞記事を読んだり、祖父母や叔母や父から当時の様子を事細かに聞いたが、母の心の有り様はもう一つ、よく分からなかった。

その後、多恵は伊関の家から絶縁を言い渡され、沖縄へ帰ってしまった父が一年に一度ほど上京する折り、父の友人の手引きで、祖父母の目を盗んで会うことが出来たが、その父は思ったより、やさしかった。一年に一度の逢瀬だったが、父の温もりは余韻を引いて、多恵の心の奥深く残った。

母の死が、まだ三歳という、年端も行かぬ折りに起きたせいかも知れなかった。多恵には母の記憶はほとんどない。祖父母が渡してくれる多恵を抱いた写真と、父の顔がマジックで塗りつぶされたスナップが幾つかあったが、その母の顔は白く滑らかな光沢が照り映えて、微笑んだ顔も美しかったが、写真の肌合いの向こうにリアリティーが虚しく消えて、多恵の心に届くにはあまりに冷たい画面が多恵と母との間の距離を遠く感じさせた。母は思い出の向こうに遠く寂しくいるように思えた。

しかし、雪の中で裸で死んだ女、その生々しい事実はたとえ三十年近くたっても、それがまぎれもない実母だけに、いつまでも多恵を心の欠けた、どこか影のある女にした。

多恵が幼い頃、祖父母はそんな多恵を不憫に思い、教会へ通わせ、信者や同じ年頃の子と馴染ませ、寂しさを少しでも解消させようと試みたが、多恵は幼児からそんな大人たちの思惑をまるで見透かすように冷ややかな眼差しを大人たちに向けた。やがて、多恵はしだいに教会へ行かなくなり、十三歳のとき、自ら祖父母へ教会へ行くことを拒否し、それ以来、教会の鐘の音を聴くことはなくなった。 (続く)

 

小説・雪の十字架

 

副題=ジャンヌ・エビュティリュヌより、あなたへ

 

上川千恵にとって、父は何しろ不可解で、どこか神秘的な匂いのある人だった。

沖縄で混血児として生まれ、二十歳の時に東京へ行き、十五年ほど過ごした。

その間、歌手として名を馳せ、家庭を持ち、子供を一人、授かった。しかし、自分の愛人問題で妻を悩ませ、とうとう、自殺にまで追い込んだ。

しかし、父はそういう破天荒な過去を持っている人には見えない。いや、むしろそういう破天荒な過去を持っているからなのか、父は静かで穏やかな人だった。

父は毎朝、八時に家を出、ゲート通りの奥の小さなカフェで、地元の人や米兵を相手にしながら、淡々とコーヒーやサンドウィッチを造り、夕方、七時には家へ帰って来て、家族三人で夕食を取る。

日曜日には教会へ行き、礼拝をし、午後は認知症の症状が出始めた祖母のことを気づかって、センター通りの裏手の外人ハウスへ出向き、夕刻まで祖母と過ごす。

淡々とそういう日々を過ごしている人だった。

ただ、時折り、昔、取った杵柄か、ライブハウスを経営する友人に請われて、シャンソンとラテンのライブを行ない、黒の衣装に身を包み、家庭にいる父とは打って変わったエンターテイナーの顔を見せ、観客の万雷の拍手を受けるのだった。地元の放送局から出演の依頼を受けることもあったが、父は丁重に断った。地味に、静かに日々を過ごしたいという父の気持ちの表れが伝わって来るように千恵は思った。

父の歌声を聴くとき、千恵は遠いイタリアのことを思った。父の影響からか、千恵も音楽に興味を持ち、ポップスだけでなく、歌曲やイタリア民謡を聴くこともあったが、父の声は高いテノールで、その中に甘く切ない声質があり、それは遠いイタリアを思わせた。そのときのみ、千恵は父の孤独を思った。父の父親はイタリア系アメリカ人である。その父親に父は会ったことがない。父の歌声はその父を想うように、懐かしむように千恵には聴こえた。

一つだけ、父は千恵に口酸っぱく言ったことがあった。―美しいものに敏感になりなさい。美しいものに敏感になったら、いろいろなものが視えて来る。そのためには本を読んだり、音楽を聴いたり、絵を見たりしなさい―と言った。それは後から分かったことだが、幼少期から教会へ行き、教会のみの価値観で育った千恵が一つの固定観念に固まらないための、父なりのアドバイスだと思われた。

それを千恵は大学へ行き、演劇の道を志すようになってから、気がついた。演劇とは自分が何者でもなく、何者でもあるという不思議な世界だからである。その、まったく理不尽な、しかし、それでいて秩序のある、統制のとれた世界を演じるためには、千恵は大きな、しかし、何もない、空っぽの器でなければならなかった。そのために千恵は幼児洗礼を受け、形ばかりではあったけれども、いつの間にか身についてしまった、奇妙なキリスト教信仰を恰も躯の皮膚を引き剥がすようにゆっくりと脱いで、捨てた。(すが)(すが)しく思い、重荷を下ろしたような自由な気軽さを感じた。これで、芝居に身が入ると思った。

はからずも、千恵の所属する劇団「蒼い舞踏」の主宰者、真木清は父と同じことを言った。

「美しいものを見る目を養え。本を読み、音楽を聴き、絵を見ろ。特に絵はいい」

そして、

「絵の前で、じっとしていろ。語りかけて来るまで、動くな。そしてその絵が何か語りかけて来たら、それを胸の中に収めろ。それを演技に生かすのだ」と言った。

千恵は父の好きな「黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ」を見ることがあった。しかし、この眼の中に瞳のない変な女は千恵には何も語りかけては来なかった。

かつて、そのことを父に聞いたとき、父はこう答えた。

「それは千恵が不幸でないからさ。極度に不幸になると、ジャンヌは何か語りかけて来る。ジャンヌに語りかけられないなら、それは幸福で、平和で、千恵が満足している証拠だ」

そして、やや青みがかった目を千恵に向け、にっこり微笑った。

「お父さんは極度に不幸だったことがあるの?」と千恵は聞いた。

すると、父は静脈の蒼く浮いた、長く細い指を唇に当て、

「内緒だ」と、ウインクするように、チャーミングに答えた。

千恵には分かっていた。それは東京で妻に死なれ、多恵姉さんを事実上、捨てる結果になった時だろうと思った。それは父を塗炭の苦しみに会わせたはずだ。

千恵は「黄色いセーターのジャンヌ・エビュテルヌ」が父に語りかけたのはそのときだろうと考えた。 (続く)

 

小説・雪の十字架⑥

 

副題=ジャンヌ・エビュティリュヌより、あなたへ

 

電車の速度が徐々に緩やかになり、阿佐ヶ谷まで、もうそろそろ着くかと思う頃、駅前の風景が見えてきた。さすがに三十数年前の阿佐ヶ谷とは違っていた。垢抜けた風景が目の前に広がった。多少、落胆する気味もあったが、懐かしさがそれを上回った。

ガタン、ガタンとやさしい心臓の音のように電車がホームに滑り込み、ゆっくりと止まると、上川の心は高鳴った。

ドアが開くと、いっせいに乗客が下り出す。一緒に降りる自分の歩調が都会の人間とは違って、ややスピードが遅いように感じた。田舎者のスピードだ。都会の人間とは違う。

押されるようにホームへ降り、階段を下って、改札口を抜け、北口から外を見渡すと、一面の雪だった。

牡丹雪がふわふわと綿のように降ってきた。右方にあった大型スーパーは店名は同じだが、装いを変え、左方の、駅に沿って連なる繁華街もすっかり様変わりしていた。かつての、古い下町の面影を残したような風情とは違っていた。ネオンが明るいせいか、都会じみて見えた。しかし、区画が変わらないせいか、懐かしさはこみ上げる。行きつけの喫茶店があった場所、お寺、質屋、スナック、時計屋、居酒屋、ホルモン焼き、食堂、それらの雑然として居並ぶ昔の光景がたちまちのうちに瞼の裏に蘇り、目を閉じると、あっさりと今の光景のように怪しく交錯して、時を超えて目の裏に映った。匂いまで(かんば)しく、鼻の先で漂うように感じた。

上川はしばらくその思いを噛みしめるように味わっていたが、やがて目を開けると、南口へ向かった。

正面に古本屋があったはずだが、今はない。新しいビルに代わっている。パール・センターも玄関口がやけに明るく、華やいで見えた。

駅に沿って、右へ歩いた。しばらく歩いて、左へ曲がった。そこに待望の物があるはずだ。胸が高鳴る。しかし、あるはずはない、あるはずはないと、上川は思った。何しろ、あれから三十数年も経っているのだ。しかし、恐る恐る目を上げると、上川はその眼前の光景に驚いた。

あった、あった。何と三十数年の時を超えて、その建物だけが残っていた。二階建てに屋根裏部屋を加えた粗末な木造の建物だが、そっくり残っていた。そこだけ、時代に取り残されたようだ。周りは垢抜けた光景に変貌しているというのに、セピア色の画像のように、そこだけ時代を超えて、立っている。

上川は驚嘆する思いだった。奇跡のようだと思った。誰がこの建物を保存したのだろう。いや、あまりに利用価値がないものだから、捨て置かれたのだろうか。しかし、だとしても、バブルの時代があったのだから、新しい近代的なビルに建て替えられたとしても不思議はない。オーナーで、国立(くにたち)音楽大学の教授の永井先生はどうしただろうか。生きていたとしたら、九十を超えているはずだが、ひょっとして、トラブルでもあったのだろうか。

ともあれ、上川の青春の象徴でもあるこの建物が残っていたのは奇跡だった。

上川はゆっくりと二階へ続く階段を上がった。階段に張られたカーペットがところどころめくれ上がって、上を向いている。黴臭い匂いが鼻をつく。どうやら、少なくとも、ここ数年は使われていないようだと思った。

二階の廊下にたどり着いた。《ピアノバー・屋根裏》と書かれた店の題字がそのままプレートとして、玄関の壁にとりつけられてあった。すると、自分が阿佐ヶ谷を去った三十数年前から、どれぐらいの期間かは分からないが、きっとマスターを代えながら、店は続けられていたことになる。オーナーの永井先生はその間、ご存命だったのだろうか。どういういきさつがあったのだろうか。しかし、今さら、いくら考えても、上川に分かるものではない。すべて、過ぎ去ったことだ。

店のプレートに触ってみた。懐かしい感じがした。ここから、全てが始まったのだと思った。

毎週、土曜日の夜、「上川望・シャンソンとラテンの夕べ」が行なわれ、永井先生がピアノを弾き、上川が夜遅くまで、シャンソンとラテンのナンバーを歌い、観客を熱狂させたものだ。長身でハンサムな上川が黒の衣装に身を包み、客の間を練り歩きながら、数々のシャンソンとラテンのナンバーを歌うと、観客は酔いしれた。ネクタイ族が多く、カップルも多かった。その中に伊関芳恵もいた。つまり、多恵の母である。

芳恵と上川は出会って、ほぼ一年後に結婚した。芳恵の父の伊関隆三は大反対した。探偵を使って、上川の出自を調べ、猿と人間の結婚だと言い始めた。決して結婚してはならない二人が結婚するようなものだと言うのだった。

しかし、火が()いた二人には通じなかった。特に芳恵は上川がいなければ、自分の人生は成り立たないとまで言い張った。

結局、伊関隆三は折れた。地域の実力者、伊関隆三は沖縄の売春婦まがいの女の息子、上川望に結局、娘を取られる羽目になったと、芳恵の親族や、伊関家の通う教会関係者は密かに噂し合った。

上川は都会人でも身内は別かと、臍を噛むような思いを味わったが、芳恵のために我慢した。二人は伊関家の通う教会で、盛大な結婚式をあげた。

あれから、三十数年になる。 (続く)