詩と文④飛ぶ

 

いつか私は晴れがましい自由に立ち会った

それは孤独なものだったが

しかし 私は嬉しかった

 

(はらわた)に染み通った傷口も

掌に打ち抜かれた木釘の痕も

確かに私の肉体を打ちのめしたが

しかし 歓びはそれを凌駕した

 

悲しいほどに嬉しいとは

私に故知(ゆえし)らない感情だった

 

全てが晴れ晴れとし

限りはなかった

そう 限りはなかったのだ

 

それだから私は

自分を鳥とも思わず

蝶とも思わなかったけれども

自由に飛べた

 

悦楽はいつか終わるはずだけれども

私はそれが信じられなかった

 

一瞬とは永遠の連続なのだ

いや 永遠は一瞬の連続なのだ

 

いや 違う

やはり 一瞬は永遠の連続だ

だから 私はいつまでも飛べた

いつまでも いつまでも飛べた

そして 雛鳥のような私の子たちを

いつまでも見守ることができた

 

経験は反復(リフレーン)する

 

一瞬は永遠の連続であり、永遠は一瞬の連続とは復活(●●)の比喩である。一瞬は凝縮された永遠であり、永遠は一瞬を(みなもと)とした無限ならば、イエスの復活は永遠に続くことになる。消えることのない(またた)きなのである。

人は覚醒したまま、生き続けねばならない。それがイエスの復活だからである。しかし、覚醒したまま、生き続けるなど、人間に出来るはずがない。人間は肉体を持っており、肉体は過去、現在、未来といった時間の継続性に屈服する。死なねばならぬからだ。死なねばならぬとは何という矛盾だろう、せっかく生まれて来たのに……。

然して、人は復活を記憶する。イエスの十字架によってもたらされた復活という恩恵に浴するのだ。パウロがそれを実現した、心の中で。「もはや、生きているのは私ではない。キリストが私のうちに働いて生きているのです」と。確かに、それはそうだ。パウロは生前のイエスに会わなかったにもかかわらず、イエスの十字架が何であったのか、何でイエスは死なねばならなかったのか、何で、死後、復活したのか、心と躰に杭を打ち込まれたように実感した。 

実感は経験である。経験は忘れない。いや、忘れることが出来ない。経験だからである。然して、経験は一度きりかも知れないが、記憶する。記憶は反復(リフレーン)する。心と躰に刻みつけられた経験は生涯、反復(リフレーン)し、それは信仰となるのだ。