詩と文③祈り

丸い石も 四角い石も
どれも石だと アノ人は教えてくれた
それから 黒い人も 白い人も 黄色い人も
皆んな 人だとも教えてくれた

アノ人の心で見ると
丸い石も 四角い石も
それから いろいろな肌をした人も
どれも同じだということがよく分かった

だから いつも アノ人の心でいようと思うのだが
そういうわけにはいかなかった
いつでも心は邪鬼のように揺れた

だから ときどき アノ人の前へ行って額ずいた
そして祈った

私が私で無くなりますようにと祈った
それでも心は揺れた

だから 絶えず祈った

私の(私)がどこかへ消えて無くなりますようにと祈った

 

完全、について

 

完全という言葉の意味が元々、「ありのままの石(ヘブライ語)」だということを知ったとき、「やはり、そうか」と思ったものです。もし、完全という言葉が「立派な人」だとか、「完璧な建物」だとか、「完全な(美しい)容姿」というふうな意味に使われているとしたら、どうもイエス・キリストの十字架のメッセージにそぐわないという気がしたのです。

イエスは「ありのままのアナタ」を完全と言っているのだと思います。つまりは置き換えが効かなく、かけがえがなく、たった一つの存在、それを完全と言っているのだと思います。

石の形は全て違います。丸っこい石、デコボコの石、とがった石、小さな石、大きな石、いびつな形の石、それぞれ違います。しかし、それは「成りなりて、成り立った自然の石」なのです。神様が創った石なのです。それに手を加えてはいけません。それが完全というものなのです。

違うなら、違うでいい、それを愛しましょうということなのです。手に取って眺めて、「これは面白い」と言ってあげましょうということなのです。

形を変えて、完璧に仕上げる。これは人間の眼が見た、作為的な造り物なのです。

サグラダファミリア大聖堂を設計したアントニオ・ガウディは「所詮、芸術は自然の模倣に過ぎない」と言ったそうです。優れた芸術が芸術(創作)を考えれば考えるほど、神の創りし物にはかなわないと思ったとしても、当然でしょう。また、その芸術家の芸術を見る眼が深いと言わねばなりません。

画家で俳優の片岡鶴太郎さんは魚を書くとき、その魚をじっと見ていると、「その魚が書いて欲しいと思っている、最後の情景が浮かんで来る」そうです。鶴太郎さんは魚という自然を模倣しているのでしょうか。その模倣は上手いと思いますが、魚が描いて欲しいと思っている、その最後の情景を鶴太郎さんが感じているその感性が素晴らしいと思います。

作為的でない感性は自然を生みます。いや、似ます。限りなく近づきます。

それを最後まで追求したのがピカソではないでしょうか。ピカソは最後は子供のような絵を書きました。ひと筆書きで、天使の絵を書きました。「子供のような絵を書きたい」と思ったのがピカソではないでしょうか。

パウル・クレーもそうではなかったかと思われます。パリの街角で、子供の絵とクレーの絵を合わせて七、八枚並べて、どれがクレーの絵かを街行く人に当てさせたら、ほとんど当たらなかったという事実があります。

確か、右利きなのに、左手で書く書家がいました。右で書くと、作為と雑念が入るので、より自然に近い書は左でなければいけないということでしょうか。

ともあれ、完全というものは「見た目に整っている。或いは完璧な人格」というものではなく、自然で、作為的でなく、構えてなく、そのままの、ありのままの存在、ということをイエスの愛を考えたとき、やはり、想います。