裸足の人

その人はいつも裸足だった
裸足で歩かないと
人の痛みが分からないと言った

その人はいつも手を差し出した
手に触れないと
その人の心の痛みが分からないと言った

その人はいつも傷口に触れた
傷口に触れないと
その人の傷の痛みが分からないと言った

その人はいつも頬に頬を当てた
口に出して  愛しているとは言わないが
愛された人には分かっていた
その人が何ににも増して
愛することを
愛されることを
人が欲していることを

やがて  その人は去った
跡には愛が残った

やがて  その人は死んだ
そして 愛だけが限りなく(のこ)った

 

触れる者

 

憐れみという言葉の原意が「我がはらわた、痛む(スプランク二ツオマイ)」(エレミヤ31:20)に依っていて、共感・共苦を意味することを知ったとき、新約聖書からイエス像が浮かんでいた私にとって、さもありなんという思いであった。憐れみなら、施しのニュアンスが大きいが、共感・共苦なら、共に同じ痛みを分かち合おうというニュアンスに変わるからである。生きていた頃のイエスにとって、社会的弱者は自らの問題と類似するものだった。

本田哲郎神父によると、イエス自身が「誕生から死まで、底辺の底辺をはいずりまわるようにして生きた」(釜ヶ崎と福音・61頁)とあり、その事実性、いわゆる信憑性はともかく、私が感じる新約聖書の中のイエス像はまさに社会的弱者と運命ならぬ、宿命を共にする者と映るからである。

従って、彼は徹底して、《触れる者》であつた。弱者の手に触れ、肩に触れ、傷口に触れるイエスであった。そうして、奇跡は起こったのである。奇跡はマジックではない。愛の行為であり、さらには愛を超える行為である。つまり、愛という、ややもすると、心的、精神的な行為を超えて、他人の痛みを自分の痛みとする、自らも肉体の苦痛を伴う愛の究極の行為なのだ。そのことによって、他人の痛みは安らぐ。分かち合えるからである。イエスの行為はそのような行為であったと、私は思っている。