映画「パッション」を観て

 

映画「パッション」の極めて過激で過酷なイエスへの暴力描写をほぼ二時間余、見続けている間、私が考えていたのはこの暴力描写が何ともリアリティーを欠いているということでした。ほとんど過剰かと思えるこの暴力描写が何故クリスチャンである私にリアリティーを欠いて映るのか?私の中に信仰を守ろうとする護教的な、まことに愚かな邪心が(うごめ)いて、そうさせるのか?

私はそれをずいぶん自問し、考えた結果がこうでした。日々、イエスの死に心から接し、そのことを絶えず考えている我々クリスチャンにとって、映像の中のイエスの死はむしろそれが現実ではなく、仮構であることを当然、写し出すのだ。そして、こうもつぶやく。「こうではなかった。イエスの死はもっと過酷で不合理であり、不条理であり、耐えられぬ理不尽な矛盾の統合の(かたまり)のようなものであった」と。こう考えたのです。

映画は過酷な暴力を映し出しますから、それは監督メル・ギブソンのキリスト教信仰の手柄だと思います。それはそれで、キリスト教徒にとって、また、それを伝えたかったメル・ギブソンにとって一定の成果があったと思われます。

しかし、私たちの内実はイエスの十字架刑における内面の変化ですから、その暴力シーンは当然大事なことではありますが、イエスの内面ではその暴力では語れない、おおよそ想像のつかぬ葛藤があったのです。それを思うと、暴力のシーンは私には第二次的なものに思われ、イエスの内面の方が遥かにその傷の痛み、鞭による傷の痛みよりも「(いた)む」ように思われるのです。精神の傷みが肉体の痛みよりも辛いと考えるのは肉体に対する人間の知の想像性の限界を、そしてそれに気づかぬ横暴・横着・傲慢なのかも知れません。

しかし、私が最も辛いときに見た、いや心の中に視たイエスはそれこそ引きちぎられ、引き裂かれ、自分の愛した民衆に唾を吐かれ、罵られ、愛を裏切られたイエスだったのです。そして、ピラトの軍隊は自らを(肉体の)死へ追いやる文字通り「敵」だったのです。その敵へ、イエスは「主よ、彼らを赦したまえ。彼らは何も知らないでいるのですから。・・・・」と言ったのです。

このとき、私の中には肉体以上の、いや、傲慢かも知れませんが、思考しない肉体を超える精神の引きちぎれる、或いは引き裂かれる無情の、矛盾の、不合理の、不条理のただ中にあるイエスが在ったのです。そしてそのあり様はリアルを超えて事実であり、真実であり、私の心にまるでカウボーイが牛に刻みつけるような焼印を刻みつけ得たのです。

そのような私ですから、まるで肉体のみのパッションにおける肉体への拷問を完璧にリアルだと考えることが出来たでしょうか。否、そのことがまったくイエスの苦悩をあますところなく表現し得ていると言えたでしょうか?応えは何か?否です。

何故なら、イエスの傷みは肉体を超えた、不条理を条理()らしめた、不調和を調和()らしめた、不合理を合理()らしめた、さらには矛盾を統一し、相克を調停し、人間の宿業的な自我を超えて、利他愛を完成せしめるほどにその苛烈を極めた精神の葛藤が、とどのつまり結果としての肉体化、言ってみれば血を見るほどに、血を見せるほどに顕在化していたからです。

つまりはイエスの精神はここに「歴史に介入した」と言えます。あの「パッション」が映像という機能上の制約性を超えてイエスの傷みを表現したとは残念ながら言えないとはここに理由があります。