仮構と現実(シンドラーのリスト)

 

「シンドラーのリスト」は素晴らしい映画でした。さすがスティーヴン・スピルバーグ監督だと思いました。ナチスのユダヤ人虐殺の過程を過不足なく忠実に描いて、改めてナチスの残虐さを世に知らしめ、「人間がどこまで悪くなれるか?」という問題とその問いを改めて我々に突きつけてくれました。

しかし、この映画はそれと同時に改めて映像というものの限界性をも示すという極めて皮肉な結果になったと私は思います。

映像はあくまで現実ではなく、現実を解釈し、再構成し、表現して、観客に提供するという過程を経るのですが、それは現実自体がその過酷さそのままで、物言わぬ現象そのもので人間の真の現実を生々しく語るとき、映像はいくらその技術が優れていても、真の現実には迫れないという機能の宿命を持っていると思います。

映像に現れる俳優やそのセリフや舞台などは当然のことながら、すべて虚構です。事実に極力即しているとはいっても、それは明らかに当然のことながら、違うものなのです。

映像が現実を凌駕する事態がもしあるとすれば、それは虚構を組み立てた上で、現実の過酷さよりもさらに過酷なリアリティーと思想をその映像の上に展開する他ないのですが、ナチスのユダヤ人虐殺という史上稀れにみる事件が起こり、それがそのまま数多のフィルムに現存している事実をみるとき、どうしても映像はその真理に敗北をせざるを得ないという宿命を負っていると思うのです。

ユダヤ人が収容所行きの列車に乗るべく、手に手に荷物を持ち、冬支度の恰好で急ぎ足で歩く場面がありますが、同じ場面を当時の実写フィルムで何度も見ている私としてはどうしても実際に収容所へ行くべく列車へ急ぐ(実際の)ユダヤ人の人々と、同じく手に手に荷物を持ち、列車へと急ぐ映画の中のあくまで映像の中の(借り物の)人でしかない人々とは人間存在の厳粛性という意味において、明らかに違うのです。

映画は映画、事実は事実というご意見もあるでしょうが、「ローマの休日」のようなあくまでメルヘンのような虚構それ自体が人間の感動を呼ぶような物語ならいざ知らず、「シンドラーのリスト」は現実に派生したあまりにも過酷過ぎる現実を改めて表現しようと試みた、言わば自然の模写なのです。

サグラダ・ファミリア大聖堂を設計したアントニオ・ガウディは「芸術はあくまで自然の模倣に過ぎない」と言いましたが、ここで明らかに自然は芸術の前に聳え立ち、その自然という性質の機能そのままに芸術をハナから凌駕するという現実を帯びます。

「シンドラーのリスト」はナチスによるユダヤ人大虐殺というあまりにも過酷なその厳然たる事実の前に結局のところ、ひれ伏す他はない、そしてそれ自体がスピルバーグ監督の技量によるのではもちろんなく、映画の優秀性を損なうものでももちろんなく、映像という仮構の性質が現実の厳粛性の前には究極のところ及ばないという映像性そのものの限界性を示しているものと思われます。