有限の相貌と魂の永遠(ルターとクラナッハ)

 

十六世紀の画家クラナッハは友人マルチン・ルターの肖像画を描いたあとで、こう言った。「ルター本人の姿は、魂の永遠を秘めている。けれどルーカス(クラナッハ)の筆は、有限の相貌を表わすにすぎない」と。ここにはクラナッハが友人ルターを尊敬する気持ちと、それから、画家の謙虚な気持ちが率直に現れている。しかし、相貌の有限性というものは絵において可能ではない。古今の名画がそれを示している。名画は魂を示してくれるのであり、その魂は永遠なのである。我々はモナリザの微笑を過去のものとは思わないし、ゴッホの肖像画をもはや色あせたた過去の遺物と思うことが出来ない。それはそれらの名画が時を越えて我々を揺り動かすからである。クラナッハ描くルターの肖像画もやはり我々を動かしてくれる。それはその絵画が充分に当時のルターの活躍、言ってみれば宗教改革のために東奔西走したルターの一種の気概を我々に感じさせてくれるからである。ジョットウを始めとするルネッサンス以前の技術的に稚拙な絵が実は我々を感動させるのもこれと同じ理由である。言ってみれば、それは当時稚拙な絵が民衆の信仰意識に支えられ、それを描かせたからである。クラナッハは謙虚に、自分の絵は相貌を映すに過ぎないと言っているが、それは違う。それは時を越えて我々を動かし、クラナッハが否定した、絵画における相貌の有限性というものを越えて、ルターの精神を我々に指し示してくれるのである。