宗教と思想・文学・芸術について

 

四十年以上にわたって文学に、或いは三十年近くにわたってキリスト教を始めとする宗教に馴染んできた私にとって、文学の場に宗教なく、宗教の場に文学がないことは極めて寂しいことです。

明治以来、内村鑑三をある種の始祖として宗教書をものして来た幾多の宗教家の中には優れた宗教家であると同時に文学者としても優れた資質を認められた数多くの方がおり、また現在でも仏教、キリスト教を問わず、宗教書を著しておられる方々の中には、その宗教観を表すのに優れた文学を紹介しながら、その著作の効果を高めている方々は枚挙に暇がありません。

しかし、キリスト教会の現場にいると、彼・彼女らのほとんどが宗教、それもキリスト教のみという世界にどっぷり浸り、文学どころか、それ以外の世界および価値観を知らない、或いは知る意志もないらしいことに驚きを覚えるのです。

宗教、特にキリスト教という一神教の世界はそういう意味では「げに怖ろしき世界」ということも言えます。その宗教にのみ浸っていれば、その方は幸せでしょうし、そのことについては何の異論もありません。観客民主主義という言葉もありますから、世の中には自分の思想・信条で、自分が幸せであればよいという価値観には何人も口を差し挟む権利はないのですから。

こういう人々は無害である限り、こちらからは多少の違和感はあっても、それ以上言うことはありません。

しかし、キリスト教という価値観にのめり込み、それ以外の価値観は知らないにもかかわらず、それを絶対として他人に推しつけるに至ってはほとんど有害というほかありません。それを伝道という名で片づける方もいますが、キリスト教という価値観しか知らない方に教えられた価値観がどのようなものであるのか、私は想像するさえ怖ろしい気がします。

伝道には責任があります。キリスト教を伝道するからには他の宗教に敬意を払い、勉強し、さらには(可能な限りという条件つきですが)文学、思想などの他の価値観についても十分に学ぶべきだと思います。学んだ上でそのキリスト教の長所を、あり様を相対的に見る視点を獲得出来れば、その伝道は奥の深い、幅の広い、豊かなものになるでしょう。(奥村一郎神父はそれを実現した数少ない人物の一人でしょう)。

先に上げた、内村鑑三を始祖とする多くの著名な宗教人がそのような方法を用いて著作を著し、伝道を豊かなものにして行ったことはその明らかな証左でしょう。

因みに、キリスト教の現場が文学や思想を嫌う例として、「信仰者の自己吟味」(工藤信夫著)の中で、工藤氏は次のような話しを紹介して、嘆いています。「牧師仲間でもこんな話はできないのです。例えば先生の本に出ているボンヘッファーや、私の好きなキェルケゴールの話をすると、すぐリベラル、リベラル(おそらく、福音的でない、という意味で使われたのだろう)と言われてしまうのです」と。

このような例はキリスト教の現場を狭くして、ひいては思想・文学・芸術などに深く傾倒し、人間について深く知りたいとする人々にとって門戸を閉ざす結果になっているのではないかと、私は冒頭に述べた「文学の場に宗教がない」理由になっているのではないかと、老婆心ながら懸念しているのです。

熱心さが頑迷さ、頑迷さが硬直化、硬直化がキリスト教信仰への誤解(律法主義)とつながって行くことは、これは理の当然でしょう。

工藤氏の「信仰者の自己吟味」という本のタイトルはそのことをいみじくも示していて、キリスト者が改めて自己の信仰を振り返り、自問自答するのに恰好の意味深な内容を提示していると言えます。文学の場に宗教があり、宗教の場に文学や思想や芸術があれば、双方にどれほど豊かな実りをもたらすことでしょう。少なくとも、宗教が形骸化や硬直化を免れて、改めて活性化するには文学、思想、芸術の力をもっともっと借りる必要があるのは確かなことだと思われます。(二〇〇九年、七月二十七日)。

 

芸術とキリスト教

 

偉大な芸術が案外、宗教色を持たないことは私にとっては納得が行くし、既成の集団・組織としての宗教に対する批判か無視のような気もして、痛快ではないけれども、宗教が改めて自らのあり様を相対的に凝視める契機として貴重なものかと思われます。(尤も、偉大な芸術は宗教的であるということは論を待ちません。何故なら、高邁なものを求めた結果としてその芸術が宗教性を帯びることは当然のことだからです。しかし、それは忘れてはならないのは既成の宗教集団、及び組織からは離れ、無論、教義からも離れているものです)。

ベートーベンの「運命」や「第九交響曲」は宗教の枠を超えて、人類普遍の力強い、運命や宿命にややもすると負けかねない人間に地の底から激しい力を与えるような底知れない響きを持っていますし、モーツァルトの音楽はまるで神を嘲笑うように典雅で優美で遊び心に長けていて、むしろ「神など忘れて、遊び呆けよう。人生は美しい」と言っているようです。

また、ピカソの作品もむしろ破壊的で、しかし、その底に力強い、無神の、何者にも恃まない、故に普遍的なヒューマニティーを持っていますし、ドストエフスキーの諸作品も神の存在に心から畏敬しながらも既成の宗教、カトリックやプロテスタントなどには明らかに反意の意を表しています。ニーチェにしても、キリストの在り様を正確に把握してはいますが、それを仰ぐ、或いは心に留める人間の信仰のあり方に疑問を呈しているのです。

例外として、バッハ、特に「マタイ受難曲」が浮かび上がりますが、それはあくまで、キリストを仰ぐ形として信仰者の立場で描かれたものであって、当然、神の深遠なる世界のその中核を表現してはいませんし、その意味では「マタイ受難曲」はキリストを表現した音楽ではなく、キリストについて、人間が感じたその信仰の徴れを表現していると思われます。

そして、彼ら芸術家に共通なのは、何者にも捉えられない自由でありたいという芸術を創造する上での最も基本的な姿勢の在り方を頑固に、或いは生来の資質として自覚的、或いは無意識に(あらわ)していることです。

それはたとえキリストに捉えられたとしても、また、そのことが神による自由を約束されたとしても、そのことが人間を描く上ではそのキリストの神性そのものがむしろ作品を描く上で邪魔をするということをよく知悉しているということです。

日本で最近人気のある太宰治について、評論家の小川国夫氏は「太宰はキリストを知ることによって、自らの散文性の美質が失われることを怖れた」という意味のことを、あくまで彼の評論家としての憶測にすぎませんが、語っています。

これは表現者として十分うなずけることでしょう。表現者は神の眼から人間を見ると、それが言葉にならない、或いは音楽にならない、ひいては絵にならない、つまりは地上の、仏教で言えば色彩鮮やかな彩りの、言わば迷いの世界を、その矛盾そのままに描くには神の存在があまりに不謬の完全なる視点であることを、その独特の嗅覚で密かに感じ取っていたのではないかと思われます。

これらのことから、私は表現者が一見、キリスト教信仰から遠いと思われながら、彼らが実はキリストの存在を、その存在の在り方を正確に認識してはいないまでも、その独特の嗅覚でよく知悉していて、しかし、その御前に額ずくことはこれ即ち自らのアイデンティティーを失い、同時に自らの芸術性を喪失してしまうことだということをよく承知していた結果だと考えています。

これはキリスト教徒が参考にすべき感覚です。(二〇〇九年、九月一日)。

 

芸術と宗教

 

友人と、電話で、俳句の話をしているときでした。「美しい蜥蜴のいる廃庭」(尾崎放哉)と言ったら、友人が絶句してしまいました。受話器の向こうが沈黙で満たされたので、思わず、「どうしたんだ」と聞くと、「うう~ん」と唸った後で、「美しいものは美しい。いいものはいい。他に言いようがない」と応えて来ました。感想を言うのは気が引けるという意味だとすぐに気づきました。この句には確かに人を絶句させるものがあるように私も思いました。何しろ、イメージが素晴らしいのです。ロートレアモンの「解剖台の上で、ミシンと蝙蝠傘が衝突したように美しく」(マルドロールの唄」を思わせるようなものがありました。あらゆる叙情を厳しく排して、鋭くシャープな構造で画面を領しているような美しいイメージがありました。

しかし、何より、友人と二人で、一つの俳句に絶句するほど感動し、同じ感想を持ったことが私を嬉しくさせました。

「なに恋ふて、アカショウビンの眼に涙」という田中一村の絵に何がしかの感慨を得て、俳句を詠んだ見ず知らずの女性と同じ感慨を得たこともありました。

ピカソの絵をたまたま、五木寛之氏と伊集院静氏が「う~ん」とうなった後、ただ一言、「あたたかい」と、溜め息をつくように評したのを聞いて、同じ感慨を得た嬉しさを味わったこともありました。

良い芸術は人を一つにします。複数の魂が一つになり、感動を共有するのです。嬉しいことです。

宗教もそうであればと思います。しかし、なかなか、そうは行きません。或る南の国のカトリック信徒たちは絆の深さを強調して、沖縄のカトリック信徒の冷たさを酷評しますが、聞いたところ、彼らは()が違えば、口も聞かないと言います。絆の深さが排他主義を生んでいるわけです。

「真理は人を自由にする」という聖句は同時に寛容にするという意味でもあると思いますが、少なくとも寛容ではないわけです。すると、真理についてもよく知らないということになります。何のための信仰でしょう。

 私が「宗教にとって、芸術は素晴らしい基礎的な滋養になる」といつも思っているのは、芸術的な感動が人の心を一つにし、絆という、ややもすれば頑なになりかねない危うい感情を払いのけ、自由で豊かな感性と発想を育てるからです。子供たちもそうあって欲しいものです。聖書を読ませるのも当然、良いことですが、芸術(音楽、絵画、読書)に親しませるのも、宗教心を育てる基礎として、重要な基盤になるものと思われます。

 

 参考文献=宗教家は多くの場合、あまりにも他を知らない。科学者は常に他から学ぼうとし、哲学者でさえ他の学説に常に注意を払っている。しかるに宗教家は、自己を保つに他を必要としないということから、また他を問題にすることによって自分の信仰がぐらつく恐れからも、他の宗教に対しては無知であるか、また知るとしても、最初から戦闘的護教意識に駆られて、ただアラ探しのための研究になり下がったり、聞きかじりのことから、自分勝手な早急な判断を下して得々としていたりする。このような態度が、およそ非キリスト的であり、非カトリック的であることに気がつくことさえなく、それが根強く我々の中に隠されていることがあるのは嘆くにもあまりある。というのは、日本のような多くの宗教が雑居し、各々その市民権を獲得している社会において、そうした縄張り意識ほど布教を阻害しているものはないからである。「奥村一郎選集2」(奥村一郎)