渥美さんと山頭火

 

故・渥美清さんが生前、俳人の種田山頭火の役を演じたがっていたという話を何かの雑誌で読んだ。「ダメだろうなあ。俺がやっちゃあ、吹き出しちゃうだろうなあ」と、しきりに残念がっていたそうな。映画「男はつらいよ」で、すっかり喜劇役者としてのイメージが定着してしまった渥美さんとしては、確かに今さら孤高の俳人を演じても、視聴者は納得せぬだろうと、いやいや、それどころか、たちどころにシリアス極まる厳粛なドラマが間抜けな滑稽ドラマに転化してしまうだろうと怖れていただろうと思う。

 しかし、私は渥美さんの山頭火を見たかった。編み笠に脚伴、藁ぞうり。杖を持った旅の托鉢の乞食坊主が、物言わず、酒を酌み交わし、俳句ばかりを作って過ごす人生の有り様は渥美さんにぴったりではなかったのか?

 寅次郎を演じながら、実は「喜劇というものがその実、寡黙と厳粛さとストイックの中から生まれる」ということを知り抜いていた渥美さんはそれを知らずに、ただ笑い飛ばしている大衆にある種の苛立ちを感じていたのではないか?

 つまり庶民的な寅さんを演じながら、実は自分の心の中は庶民と離れていることを渥美さんは知悉し、そのことを心密かに悩みもし、釈然としない思いがいつも心のなかを渦巻いていたのではないか?

 「三十五年も寅次郎をヤッてるからね。疲れるよ」と言っていた渥美さんであった。実は自分の心の有り様は山頭火にあるんだと、旅僧姿で山を仰ぎ仰ぎ「分け入っても、分け入っても、青い山」とつぶやく山頭火の広いというにはあまりに伸びやかな心情を自分と

重ね合わせ、嫉妬し、羨ましがっていたのではないか?

重ね合わせていたのではないか?

 厳粛な中から生まれる笑いと、厳粛な中から生まれる俳句と実は根源は同じなのだということを我々がもっと熟知していれば、きっと渥美さんは山頭火を演じていたのかも知れない。いやいや、もったいないことをした。

しかしそれは、といって我々の罪でもない。渥美さんがあまりに寅次郎に分け入り、寅次郎になり切り、渥美さんが寅次郎か、寅次郎が渥美さんか分からなくなってしまった悲劇でもあろう。

 今さら寅次郎が山頭火に姿を代えても、確かに私たちはきっと笑い出すか、もしくは釈然としないものを感じたのかも知れない。しかし、渥美さんの心の中の空洞・空虚はあまりに広く虚ろで、それを山頭火を演じることで渥美さんは埋めたかったのだと私は思う。渥美さんの演技の質が実は寡黙にあって、それを山頭火を演じることで証明したかっただろうことを思うと残念だが、しかし詮ないことかも知れない。

 

父の食卓

 

昔、父が亡くなった後で、「折りにふれて」と題された日記が出てきたことがあります。普通の日記かと思いましたら、その日食べた食事の子細がこと細かく記されていました。

例えば、「昼、野菜炒めを食う。美味い。しかし、塩味が少し足りない」とか、「夕飯に、贅沢だが、カツ丼を近所の食堂へ食いに行った。美味いが、侘しい」とか。

父は離婚をしていました。

晩年、長年の横着の末にちょっとした事件を起こして、私はそのことを一つの契機にして、長年の懸案であり、家族の願望であった父と母の離婚を長男である私が画策して成立させました。

そのことは今でも後悔していませんが、しかし、父のその日記の詳細は痛く心に響きました。

六十に近い一人暮らしで、それまでパンツも洗ったこともない父が一人でも野菜炒めをつくる後ろ姿が想像されました。

隣に雑貨屋があり、そこで豆腐を買うのに、たまたま持ち合わせがなく、掛けをする姿なども、物悲しく連想されて、哀れでした。

父の独りの食卓は自業自得と言えるかも知れませんが、その孤独は否も応もなく酷薄な事実として私の心に突き刺さって来ました。それまでの父の悪行に対して私が為した、離婚をさせることによって孤独にしたという所業も、後悔がないとはいえ、私をひどくやりきれない思いにさせました。

父は糖尿を患って、間もなく死にました。この頃の私は、自分もきっと父と同じ死に方をするだろうという奇妙な予感に捕らえられています。それはきっと後悔がないとはいいながら、心の底に父に対するうしろめたさがあるからだろうと思われます。それが私をして、父と同じ死に方をすれば、その罪が相殺されると密かに念じているように思われるのです。

ところで、父の「折りにふれて」を私は書棚の隅に置きながら、あれ以来、開いていません。怖ろしいからです。父の怨念が詰まっているような気がするからです。晩年の父に、私を怨むほど気力が残っていたとも思われませんし、同日記にもそのことは書いていませんが、しかし、生きている私は死んだ父を想うと、やはり畏まり、怖ろしいのです。

だから、あの父の孤独のレシピはもうしばらくそっと書棚の隅にしまっておこうと思っています。