三島由紀夫への手紙①~④

 

―豊穣なる不毛とは何か?― 

 

(一九九〇年、記す)

 

一、

 

拝啓、三島由紀夫様。あなたが死んで二十年にもなるのですね。驚きました。あなたがあの壮絶な切腹をし、それこそ日本中が騒ぎ、当時、私も十九歳の少年で、しかもあなたにことのほかご執心でしたから、恥ずかしながら非常な衝撃を受けましたが、ともあれ、あれから二十年の歳月が流れたというわけですね。なるほど長いような、それでいて短いようなという、時節の流れを現わすのに最も適切な、しかし、ということは最もありきたりな、さりとて深い深甚なる感慨を私も受けます。(あなたが死んで、二十年たった。あの天才作家、三島由紀夫が壮烈な割腹自殺を遂げてから、二十年の歳月が流れた)。この時節の流れとあの死の意味はいったい何んだったのでしょうか。そして、この意味への問いはおそらくあの当時、私のように三島文学のファンであった者、また、文芸評論家、さらには今現在、三島文学のファンである者にとって揺るがせにできない問題かと思われます。

何故なら、あなたはあのとき(天皇陛下万歳)を叫び、(憂国)を唱え、自衛隊員に決起を促し、さも自分は国を憂えて死ぬのだという印象を内外に与えました。もちろん、死の一因はそれだけでなく、あなたの内的な美学の崩壊、或いはむしろその美学を成就するため、他いろいろの要因があったと思われ、また、一部の知識人や文芸評論家はそれを見抜いていましたが、しかし、いかにもあなたは自分の死の原因の何割か、いや、見ようによってはその殆どが純粋に国を憂えていることにあるのだということを内外に印象づけたことは確かでした。その舞台装置を私は疑っていますが、ともあれ、あなたの演出は完全に舞台に移され、演じられ、それは完璧な演技を収め、満場の拍手を浴び、内的な約束は履行され、あなたは割腹という史上最も壮絶にして華麗な死に方を為されて果てました。それは見事なものでした。あの、今をときめく吉本ばななさんのお父さん、戦後の知識人を代表する一人であった吉本隆明氏でさえ、「三島の思想が何であれ、この壮絶な行為の前には一言もない」と言ったほどですから、あなたの行為は実に、いや、アッパレなものでした。

しかし、嘘を言っちゃいけません。「あなた、本当に国を憂えて死んだんですか。嘘、おっしゃい。嘘は泥棒の始まりですぜ、えっ、三島さん」。いやいや、昂奮しちゃいけませんが。(昂奮すると、血圧が上がるものですから)。ともあれ、私にはどうもそこのところが引っかかるのです。あなたが一パーセントも、ツユほども国のことを憂えなかったとは言わない。しかし、人間にとって一番厳粛な自殺を国のせいにしちゃ、或いはされちゃ、たまらないという気がするのです。これはあなたをアイするためにも必要です。今、私は熱心な三島文学のファンではありませんし、いや、むしろ今ではあなたの文学を否定する者の一人ですが、しかし、あの頃、私はあなたを、あなたの文学をアイしていました。その愛ゆえに私はあなたを自分の中で嘘つき呼ばわりしたくないのです。このことは必要です。今からもときどき、あなたを愛するために、・・・・私はあなたを質し、自分を質し、生きて行こうと思います。ともあれ、そのことをこの手紙では解き明かして行こうと思います。

 

   二、

 

三島さん、あなたは死ぬ前にこうおっしゃいました。

 「私はこれからの日本に大して希望を持つことができない。このまま行ったら、日本はなくなってしまうのではないかという感を日増しに深くする。日本はなくなって、その代わりに無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと私は口を聞く気にもなれなくなっている」(果し得ていない約束)と。確かにあなたのおっしゃる通りです。確かに日本はあなたのおっしゃる通りに「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る極東の経済大国」になりました。その意味ではあなたの言うことは当たりました。そして、その意味ではあなたは立派な文学者であり、知識人であり、やはり日本の伝統の一翼を担う素晴らしい文化人でありました。国を憂い、その理由を適切に指摘して、そのことは当たりました。あなたはまるでアリガタイ予言者のようで、ヨハネのようであり、ノストラダムスのようであり、あたかもミスター・マリックのようであります。しかし、三島さん、それが当たったからといって、どうなると言うのでしょう。決して、あなたの手柄ではありません。それはおそらくあなたの作品とこうした予言とが決して相容れるものではないということから来るものと思われます。私はこの手紙でこの辺をとつおいつ語って行きたいと思います。(続く)

 

三島由紀夫への二十年目の手紙②

 

―豊穣なる不毛とは何か?― 

 

 

三、

 

三島さん、あなたは十六歳で佳作「花ざかりの森」を発表され、デビューなさいましたね。あれは典雅な作品でした。「この土地へ来てからといふもの、私の気持ちには隠遁とも名づけたいような、不思議に老いづいた心がほの見えて来た」という書き出しで始まるこの作品は全編、典雅な擬古文で書かれ、これが十六歳の少年が書いたものかと思われるような、思わず目を見張るような作品でした。私はこれを読んだとき、(この世の中には確かに天才という者がいるものだ。そして、他の文学愛好者たちはただただこの天才を崇め奉るブタに過ぎない。そして、この僕もブタだ)と思いました。ミジメでした。同じ人間なのに、何故にこうも才能が違うのか。沖縄と東京の山の手に生まれただけの違いではないかと思いました。私は日本語を知らず、ウチナーグチ(沖縄方言)しか知りませんでしたので、ただただあなたの、見事な王朝風の、貴族風の、山の手風の、つまりはすべて内地風の文体に圧倒され、(ここに天才がいる。まぎれもない天才がいる。そして、この天才はナイチャーだ)と思いました。ミジメでした。私らにはどうしてもこんなものは書けぬ。どう転んでも書けぬ。逆立ちしても書けぬ。そう思いました。ミジメでした。いったいに十六歳の少年が(隠遁)だの、(老いづいた心)だのということが解かるのでしょうか。そして、それが例え意識(言葉)だけにしても解かるのでしょうか。そうです、三島さん、私は今、いいことを言いました。それはあなたが(感情よりも、つまり人間的体験よりも先に意識の表象たる言葉から出発した)ということです。ここにどうやら、あなたを解く鍵がありそうです。そして、貴方が確か十四、五歳のときに書いた詩、(私は夕な夕な窓に立ち、椿事を待った。・・・・)この詩も何だか気になります。これらの言葉をキーワードに三島さん、私はあなたを追って行こうと思います。

 

四、

 

ところで、三島さん、私が十六歳のときに読んだ「仮面の告白」、これがまた素晴らしいものでした。この作品はおそらくあなたが一世一代の賭けをした作品でした。何故なら、それまであなたは一部の文壇関係者の間で天才少年として認められていながら、絶対的な作品を持ち得ず、イライラしていたからです。そのイライラが昂じ、わざわざ太宰治に会いに出かけ、わざわざ(僕はあなたが嫌いです)と、止せばいいのにカッコつけたりして、そのカッコがなかなかつかないから、皆んなの前でなおさら嘲笑われるというテイタラクをしてしまうのです。いいえ、三島さん、私にはよく解かります。あなたは幼児からこっち、つまり、青年から壮年をへて死に至るまで、見ようによっては実に滑稽な人間とも見えました。いえ、あの自殺も見ようによっては実に時代錯誤で滑稽とも見えますが、それはまあ、あとにしましょう。ともあれ、あのとき、あなたは太宰に会い、つまらぬタンカを切って、昭和史の文壇に汚名を残すという離れワザをやってのけたのです。あれで、ますます太宰の文名上がり、男っぷり上がり、やはり太宰は女にもてる作家、悲劇の作家ということになり、あなたはただのひがみっぽい、つまらぬ、貴族(精神的な意味も含めて)にしか好かれない、しようもない作家ということになってしまうのです。(まあ、こういう言い方には異論のある方もあるでしょうから、多くは言いますまい。これぐらいにしておきましょう)。

はてさて、そういうわけで、あなたはずいぶんイライラし、(自分はこれほどの才能に恵まれた作家なのに、未だに文壇の中心に躍り出ることができない。何故だろう)と考えた末、(それはもろ肌、脱いで、本気(マジ)になって書いたことがないからだ。つまり、今までのものは全部作り事で、それでは通用しないのだ)ということに気づきます。つまりはあなたの大好きな谷崎潤一郎大先生は作り事でもある程度通用したのに、あなたは通用せず、よって、恰もそれまで局所は見せないでいたストリッパーがとうとう局所も見せないと通用しなくなってしまった、言わば実力のないストリッパーみたいにあなたは局所をひけらかすのです。それがあなたの「仮面の告白」です。あれはあなたの、まさに清水の舞台から飛び降りる大決心の作品でした。あなたは落ち目のストリッパーがドサ回りをやるか、局所を見せて急場をしのぐかという瀬戸際で局所を見せ、いやいや、急場どころか、見事な大逆転を遂げ、昭和の文壇、特に戦後の文壇に寵児として躍り出したというわけです。

いやはや、あの作品は確かに大変な作品でした。私はあの作品を読み、目の玉飛び出、ウロコが落ち、さらには爪の皮も剥がれ、いやはや大変な思いをしました。それほどの小説でした。私はそれまで、つまり、厳密に言うと中学まで、小説と言えば夏目と芥川しか知らず、(小説というものはこういうものだ。そして、これでいいのだ)と思っておりました。つまり、一人か、或いは複数の主人公がおり、それを軸に話しが展開し、そして、描写はありきたりな自然描写と登場人物の心理が描かれる。それだけだと思いました。そして、それが小説であり、十分だと思っておりました。何故なら、それだけで話しの筋は分かりますし、主人公が何を考えているか分かりますし、なかんずく作者の言いたいことも分かりますので、それで十分だと思っておりました。

ところが、違うのですね。あなたの「仮面の告白」は違うのですね。現実は暗転せられ、世界は裏切られ、陽と思ったものが蔭であり、正義と思ったものが不正であり、世界の在る物はことごとく価値が変転させられる。それが驚いたことに、あなたの言葉の錬金術によって行われるということです。つまり、現実は見た通りの現実ですのに、あなたの言葉の錬金術によってことごとく世界が変えられる。つまり、この世は言葉の力によって、いくらでも観念は変容可能だということです。これには驚きました。我々が見ていた現実が実は背後に言葉の世界を抱えており、それは現実の世界とは違うにもかかわらず、言葉によって意味を無理やりに与えられ、白日のもとにさらけ出され、あらぬ濡れ衣をかけられ、張りつけの刑に処せられる。それが可能だということです。そして、言葉によって変えられた現実はもはや(当然ですが)言葉の価値観を通してしかそのものの姿が解からないということです。私がその頃、この作品を読み、恥ずかしいことに全く影響させられ、その言葉の価値観を通してしか物事が見えず、世界を在るがままに見ることができなくなり、全くの孤独感に襲われたというのはおそらくその辺りに理由があると思われます。(続く)