死ぬ(自殺する)自由と、子を産まぬ自由

 

作家の埴谷雄高氏によると、「人間には二つの自由が赦されていて、それは死ぬ(自殺する)自由と、子を産まぬ自由である」そうな。しかし、自由とは、全くのうしろめたさから開放された、自意識からの解放感を言うのであって、とするならば、H氏は子を生まぬ「作為と工作」をする折り、或いは自殺を考える折り、全くうしろめたさを感じないのであろうか?

子を生まぬことを前提として性的関係を結ぶ折りには、生まれて来たかも知れぬ、或いはその生命へのうしろめたさ、うしろ暗さがあろうし、自殺を考えるにしても、片時でも自分を愛してくれた者への、言ってみれば、多大な迷惑をかけることの、或いはその者の自分に対する愛を裏切ることの、何とも言えぬやり切れなさ、うしろ暗さがあるのではないか。

それを振り切って自殺したとして、それは人間に赦された死ぬ自由の行使と言えるのかどうか。すでにうしろ暗さを振り切っているならば、そこに自由はない。といって、うしろ暗さを感じないならば、私は氏の「倫理」を信じることができない。死ぬ(自殺する)ことへのうしろ暗さを全く持たない人間を私は信じることができない。もし、私が自殺したとしても、それは私を片時でも愛してくれた者への裏切りには違いないであろう。

子を生まぬ自由にしても、我々は性的快楽という負いを負っている。性的快楽がより深いならば、それは禁忌に対する負いを負っているからに他ならない。禁忌に対する負いを感じるとき、我々の性的快楽はより深くなる。

それは赦されていることを、或いは与えられていることをより感じるからで、与えられたことの有り難さ(恩恵)とすまなさ(悔恨にも似た感情)、赦されていることの、しかし、執行猶予つきのぎりぎりの性の営みであることをより深く知るからであろう。

人間は自分の力だけで自由になることはできない。それは自分で自分の首を引っ張るようもので、実は自由ではない。「砂漠の民」、それが人間で、砂漠を逃れるためには人間は何者かの力を必要とするのではないか。私はそう考えている。そして、その何者かは人間に「死ぬ自由と子を生まぬ自由」は与えていないのである。

 

聖と性(水島上等兵と石田吉蔵)

 

私がどうにも気になる人物が二人います。それは小説・映画「ビルマの竪琴」の水島上等兵と、昭和の初め頃に世にも珍妙な猟奇事件を起こしたあの「安倍定事件」の相方、石田吉蔵です。

水島上等兵は大戦時、ビルマに従軍しますが、その地で数多の同僚が死に、自らは奇跡的に一人生き残るという体験をします。しかし、そのことがむしろ彼に深い罪責の念を抱かせ、「彼の地で亡くなった数多の戦友の死を悼む」ために僧侶として残る決心をします。

一方の石田吉蔵は料亭の主として、悠々自適の生活をしますが、安倍定と深い仲になり、有名な「旅館立てこもり愛欲チン切り事件」の陰の主人公となります。

私はどうにもこの両人に不思議な透明感を感じるのです。水島上等兵の方は当然として、石田吉蔵に透明感を感じるというのは、まあ、合点がいかぬという人の方が多いと思います。

しかし、旅館に立てこもるほどの愛欲を繰り広げ、果てはその情人に「死ぬほど惚れた男の物を欲しいと思う人情は当然と思いました」と言わしめた男の至福は私には些か羨ましいものがあります。

いったい、人は仮に情交がその社会規範を逸脱してはならないとは言いながら、情交の至福がどれほどのものか、経験のない私には分かりませんが、しかし、憧れはあります。その常軌を逸した情交が常軌を逸したというその性質により至福を経て、至高のものになるのではないかという想像と、そしてこれは確かに精神の高みに引き上げられるのではないかという密やかな確信も実は私の中にはあるのです。

作家・吉行淳之介氏の小説が愛欲を繰り広げる男女をテーマにしながら、その愛欲が凄まじければ凄まじいほど、不思議に切ないほどの透明感を漂わせるのは、実に不可解な、しかし、実に自然な人間の感性の在り様のその果てとして認知してもいいのではないかと私は思っています。

思うに、聖を極めた者と、性を極めた者とが変に私の中で一致するとは奇妙な出来事です。