日本人として、(或いは琉球人として)キリスト教を考える①

 

自然ということ

 

カトリックの神父として高名なI氏はその昔、フランスヘ留学した折り、かの地でどうしても彼らヨーロッパ人と自分が発想において根本的に違う部分を認め、日本へ帰ると、それまで何の関心もなかった仏教を始めとする日本の宗教、及び歴史、伝統等を必死で学んだそうである。

これはかの地でI氏が日本人としてのアイデンティティーに目覚めた証左であろうと思われる。我々は自国の風土、或いは歴史、伝統、習慣、及びそれらの中から醸し出されて来る自然な精神風土、いわゆるその国独自の宗教観から逃れることが出来ない。それは誠実な良識というものである。我々は我々のウヤファーフジが語った「てぃんさぐぬ花やちみさちにすみてぃ」に代表される教えや戦争の教訓や、その他、昔から言われる、我々沖縄人(琉球人と言い替えてもいい)独特の精神風土から逃れられないと言える。

私は東京その他本土へ行けば、如実に私自身が沖縄人(ウチナアンチュ)であることを知らされるだろうし、また、外国へ行けばグローバルな意味としての日本人としての視野に立たされ、やはり日本人としての自分を如実に知らされるに違いないのである。

私は初めて旧約聖書を読んだとき、「これは狩猟民族の教えだな」と思った。すべてに攻撃的であり、能動的であり、そこには調和がなく、私には何か「イエスかノーかだけを査定する」強力な裁判官のような神しか見えて来なかったのである。そうして、いま一つは「砂漠の民の宗教だ」と思ったことであった。ここにはふくよかな自然からもたらされる、ある安らかな調和、或いは心の憩らぎ、そういったものがなく、殺伐としていて、何かすべてに人間間の争いだけに焦点が絞られ、そして、それを自然を媒介としない(ここいらが日本と違う)神が裁くというあり方に映って見えたのである。

むろん旧約聖書はこういった性質だけを備えているわけではない。それは偉大な新約聖書が成立するための、言わばアンチテーゼとしてのなくてはならぬ存在、或いは過程としてあったのであり、また、後に新約聖書に見られるような偉大な教えもすでに萌芽しているような個所も多々ある。従って、私は旧約聖書を愚弄するものではないことを断わっておく。

ともあれ、旧約聖書は私にとって、そういった書物であった。そして、案の定、それは私に今までそれほど考えたこともない民族のアイデンティティーという問題を考えさせる結果ともなった。

 

 日本人の宗教観

 

川端康成氏はノーベル賞受賞の講演の折りに「美しい日本の私」と題して講演した。これは氏が美しい日本の風土、或いは歴史、伝統に見守られ、抱かれ、今日まで生きて来た感謝を捧げる、一種の歌であった。

氏はこの中で、美しい日本の風土を歌い、歴史を歌い、伝統を歌ったのであった。そして、氏は決して、それらを人間だけが作ったのではなく、むしろ人間は自然に抱かれ、自然を教師として生きて来たのだと歌ったのであった。こうした氏の姿勢は自然が人間と相対立するものではなく、共存するものであることを示している。

先に挙げたI神父はこれらのことを取り上げ、特にヴェルサイユ宮殿と京都や奈良などを中心とする日本の建物などを比べて、「やはり私はヴェルサイユ宮殿などのような、人間がことさら手をかけた人工的な建造物ではなく、日本の古寺の ような、自然の中にふっと置かれたような、自然と共存する建物に共感を感じ、憩らぎを覚える」としている。これは一見たわいのない自然観のようであるが、私には西洋人と日本人の宗教観の彼我の違いを現わす極めて顕著な例えに思えてならない。

ところで、そういったことを踏まえて聖書を考えなければ、私は徒らに聖書に惑溺し、西洋人の発想に自らを閉じ込めて、「これで良し」としていては日本人のアイデンティティーを失い、ひいてはそのことがまっとうなキリスト者としての資格を失うような気がしている。

良寛さんの話しをしよう。良寛と言えば、私はまことに恥ずかしい話しだが、ただ手鞠をついて、子供と遊んでいるだけの、特異だが、得難い坊さんというイメージしかなかった。ところが、学んでみて、違った。良寛は実に偉大な思想家であり、哲学者であり、実践仏教家なのである。

曰く、「形見とて何か残さん春は花、山ほととぎす秋はもみじ葉」、日く、「裏を見せ、表を見せて散るもみじ」、曰く、「炊くほどに風が持て来る落ち葉かな」、さらには書簡で、「災いの時節には災いにあうが候。死ぬときには死ぬが候」。

ここには自然とともに生きた良寛の面目躍如たるものがある。また、これには先に挙げた川端の自然とともに生きる姿もだぶって来る。つまり、二人はともに日本人として生きたのである。

 

昔、私は台風が来ると、木造の、建てつけの悪い、今日の住宅と比べると遥かに弱い家の防備に熱中した。

折りからの嵐の中を、父とともに、戸袋の穴ともう一方の穴に角材を渡し、それで板戸に釘を打ちつけて、家を守ったりした。二人ともびしょ濡れであった。そのときのことを思うと、私は自然とはやはりいやなものだと思うが、しかし、良寛の「災いの時節には災いにあうが候一という言葉を思い出すと、ほっとするのである。西洋人が自然を対立物と見て、それを凌駕しよう、征服しようと考えるのに対し、ここに見られる良寛の意志は自然と調和しよう、むしろ相和(あいわ)そうという精神が見られるのである。

F氏はフィリピンでマグサイサイ賞を受賞した偉大な自然農業実践家だが、彼は「人間は一片の葉にも如かない」と言う。これは一見悲観的な、ペシミスティックな考え方のようだが、違うと思われる。氏はただ、人間が自然に生かされ、その営みによって生成されていると言いたいのである。

また、万葉集、古今和歌集、及びそれらを始めとする日本古来の数々の書物によって我々は日本人の感性が自然と相和し、その中に溶け込むことによって自らも浮かばれる、或いは救われるという教えを学んだ。先に挙げた良寛の「形見とて何か残さん春は花、山ほととぎす秋はもみじ葉」はその代表的な例であろう。また、自殺という是非ない理由ではあったが、自然の中に溶け入り、「美しい日本」の向こうへ消えて逝った川端氏もその例であろう。また、西行の「願わくは花のもとにて春死なん、この如月の望月のころ」もやはりそうなのである。古来、日本人は死ねば土へ帰ると教えられていた。それは安寧であった。そうして、それはまた生きている間も自然と共存するという日本人の生き方であったのである。(続く)

 

注:「信仰には日本人も外人もないでしょうが」という盲目鈍感な態度では、カトリックは日本人に西欧のイエス像を唯一のものとして押しつけることになり、多くの日本人はイエスと縁なき衆生となるであろう。

こうした日本人と現代人に対する二重の無知と鈍感はイエスを現代日本人に伝えることの妨げになるのみであろう。「カトリックと日本人」(坂本尭)

 

日本人として、(或いは琉球人として)キリスト教を考える②

 

利休と世阿弥

 

私は利休について、うん蓄を傾けるほどの知識を持ち合わせていないが、彼の茶道が禅の流れを汲むものであること、そして、禅の流れを汲むものとして当然のことながら、それがひどく激しい禁欲的な諸相を帯びながら、実はじつに広々とした広大無辺な地点に到達するものであることぐらいは知っている。

彼は例の茶室を二十畳から六畳、六畳から四畳半、さらには四畳半から三畳、そうして、ついには一畳半と狭めて行ったが、それは彼が作成した一見何のへんてつもない茶匙同様、虚飾を削り落とすことによって広大無辺の普遍的な境地へ達する仕掛けだったのである。

また、世阿弥である。かれは能の大成者として有名だが、彼の「美しい花がある、花の美しさというものはない」も同様であろう。彼は(私の独断だが)、美しい衣装に目を奪われる観客に手を焼いていた。彼が観てほしい、或いは感じてほしいのは美しい衣装の奥にある心であった。その感情表現の精緻、精妙さにあった。ところが、観客はその絢爛豪華な衣装のみに心を奪われ、精神を見なかった。従って、彼は言う。「美しい花がある。花の美しさというものはない」と。

彼にとって衣装は花の美しさであり、重要なのはその奥にある心、即ち、美しい花なのである。ここにも虚飾を削り落とした姿がある。世阿弥の目にはおそらく絢爛豪華な衣装はない。あるのはただ、衣装の奥にある役者の心の精緻なのである。

利休といい、世阿弥といい、虚飾を振り捨てた末に真実をつかみ取った芸道の奥義に達した人間の心がある。そうして、それは皮肉にも芸道と言いながら、禅という、人間の心を源にした宗教に端を発していたのである。それはおそらく芸と言えども倫理がなければ人間を感動させることは出来ぬという二人の達人が感じた芸道の本質であろう。そうして、それを我々日本人は密かながらも知っているはずである。

 

 八木重吉と日本人の心

 

「虫が鳴いている、今、鳴いておかなければもうだめだというふうに鳴いている、自然と涙を誘われる」

この八木重吉の詩を読むとき、私はクリスチャンでありながら、日本人として生きた彼の心を見る思いがする。

彼は家族を持つことが罪悪だと考えるほどキリストに傾倒していた。それは無所有を所有とするキリストの生き方に反することであった。しかし、それはキリストに赦されながら、また赦されている故に自分を赦さないという、激しい禁欲的な、ほとんど自壊に等しい行為であった。彼は清さのみを欲し、それ以外をほとんど欲しなかった。そして、清さを欲したら、それが世上の生活を否定することになるという矛盾に気づいていた。しかし、その矛盾に気づきながら、彼は生きねばならなかった。彼のキリストヘの愛はそういう矛盾に裏打ちされていた。何故なら、その矛盾に打ち勝って昇天したのがキリストであり、ところがそういう立場にありながら、人間を赦していたのがキリストだったからである。

彼はそういうキリストヘの信仰を強める一方、先に挙げた詩のように日本人の心を失わずに持っていたのである。

ここには日本人特有の「もののあわれ」、また、自然を我がことのように愛おしむ独特の感性がある。今、鳴いている虫は明日死ぬから憐れなのではなく、明日をも知れぬ生命をしっかりと抱き締めて、まるで生命を愛おしむようにしているから憐れなのである。つまり、ここでは重吉の眼は、明日死ぬかも知れぬという時間性に向けられているのではなく、一瞬々々の生命の輝きに向けられているのである。だから、憐れなのである。

ところで、我々琉球人は「愛(かな)さん」という独特の愛情形式を持っている。これは恋人同士が相語らうのと同様、また同じ言葉が親、兄弟、血縁、友人にも交わされる。言ってみれば、「愛(かな)さん」という言葉が男女の愛を現わすだけでなく、知人、友人への「お前を思う」という隣人愛への感情形式へも高められているのである。

この感情は私にはここに挙げた重吉の詩にも共通しているように思われる。重吉にとって、明日をも知れぬ生命をしっかりと抱きしめて生きている虫は「愛(かな)さん」というわけなのである。愛おしむとはそのことであり、もののあわれとはその奥に潜む感情の源泉なのである。

ところで、我がキリストも天から人間を「愛(かな)さん」として見守っている存在であった。彼は我々を懐ろに抱くように、また赤児を抱くように、その感情の源泉は「愛(かな)さん」なのである。従って、我々琉球人はキリストの心が分かるはずである。そうして、八木重吉の気持ちが分かるはずである。そういう我々はまた日本人の心をもって、日本人としてキリスト教を理解することが出来るはずだと私は思っている。

 

結びに……

 

いつだったか、プロテスタントの集会に参加したことがあった。私はカトリックであるから他宗派への参加である。

私はそのとき、彼らがいきなり琉球の民謡で会を始めるのに驚いた。なかんずく感動した。カトリックではそういうことはほとんど行わないからである。

「あしみじゆながち、はたらちゅるひとぅぬ」と歌い、「てぃんさぐぬ花やちみさちにすみてぃ」と口ずさむ彼らに私はほとんど驚異に近い感動を覚えた。その場所で、私は私の拙い、ささやかな信仰の歴史に嬉しい一ページを加えることが出来た。私は彼らが地元の信仰を思い、地元の感性を大切にし、地元の価値観を大切にあたためていたことに敬意を表したのである。

私は信仰というものはまず、自分の生まれた故郷を大事にすることから始まると思っている。そうして、その故郷の価値観、感性、宗教性、風土、習慣等を深く知ることが大切と思っている。何故なら、それは自分を深く知ることにつながるからである。深く知るということは、これ即ち、自分の原初の姿に立ち会うことになる。そうして、信仰とはそこから始まるのである。

興味深いエピソードを思い出す。ある年老いた修道女があるとき地震に出会ったそうである。彼女は驚いて、そばにいた同僚にこう言って助けを求めたそうな。「ナムアミダブツ」。・・・・

彼女は言ってみれば、自分の原初の姿を知らなかったのである。それを知らずに、ただ徒らに西洋の宗教に惑溺し続け、あるとき、突然に、日本の国教同然たる仏教用語を口にしたのである。それはそうであろう、彼女は日本人なのだから。………

私はこうした事例にも、ある意味で、祖国の日本人の精神を知らず、感性を知らず、価値観を知らず、風俗習慣を知らず、いや、いつしか忘れ、他国の宗教にのみ没頭し続けた人間のある種の悲劇を見る。

我々は祖国から逃れることは出来ない。これは消極的な意味合いではなく、積極的な意味合いである。つまり、祖国とは我々にとってのっぴきならない存在なのである。そののっぴきならない存在をむしろ積極的に引き受け、その国民の感性、価値観、風俗習慣を徹底的に謙虚に学ぶことこそ、むしろ我々キリスト教徒という、良くも悪くも異国の宗教を学ぶことになった者の務めであろうと私は思っている。