物語の重要性について

 

人間にはどのような人間にも物語があると私は思っています。どこで、どのような両親のもとに産まれ、どのような家庭で育ち、どのような恋愛をして、どのように死んだか。これはイエスにしても同じことだと思っています。たとえ、イエスが神の子としても、マリアの子に産まれたことには間違いがないですし、イエスにも幼少期があり、青年期があり、思想を持ち、行動して行ったわけです。そしてその中で、どのような人間たちに出会い、どのように考え、思想形成をして行ったか?

残念ながら、聖書にはそのような記述がなく、わずかに少年期の出来事と、気の遠くなるような(でっち上げの)系図とが残されているのみです。これでは生前、イエスがどのような男であったか、青年であったか、ほとんど分からないわけです。

私は聖書を読むうち、イエスの姿が茫洋として浮かび上がり、それは徐々に形を為し、イエスの苦悩と悲しみに共感し、そして心から(恥ずかしながら)イエスを愛しました。そして十字架のイエスを、ちょうど時を同じくして不幸な目に合うという幸運を得ましたから、なおさら愛の心、覚めやらず、過度の神経症のおかげでイエスの十字架上の秘儀を知ることが出来ました。このことはおそらく私が読書好きな上に人生に幾度もない極度の不幸が私を過度の神経症に陥れたため、いっそうの感情移入が可能になり、私を普通でないイエス愛好者にしたのだと思っています。

こうした経緯は恥ずかしながら、熱狂的なただのイエス信者と思われかねませんから、このことをむしろ逆説的に言い得ている遠藤周作氏の言葉を借りて、私自らを擁護しようと思っています。氏の言葉はこうです。「普通の人間が、ごく普通の日常生活を送っていて、聖書、特に新約聖書を読んでも、それが心に響いてくるとはとても私には思われない」。まさしくそうだと私も思います。現在の私が聖書を読んでも、果たして当時のように感動したかどうか、私は自信がありません。と、同時にそれはほとんど当然のことのように思えて来ました。ただし、その性質は違って来ていて、現在では当時、聖書を読んで感動したために、その感動の性質はよく覚えていて、心の裡に熱狂的ではないけれども、確かな刻印のように残っていて、その刻印を確かめつつ、キリスト教徒としての人生を歩むというような経緯になっています。

さて、まわりくどくなりましたが、私がこの項で書きたいのは、聖書の中にその行間から生きたイエスを探し抜き、想像し、自分の中に取り込み、ひいてはひたすら愛することでイエスの十字架を理解するということの必要性です。つまりは生きたイエスの物語の必要性ということになります。聖書の意味するところのみを捉えて、イエスの十字架を理解しようと努めても、その行為にイエスに対する愛がなければ、とてもイエスの十字架が少なくとも心で理解、いや、感得したとはいえないと思います。そうしてこのイエス理解に必要なのが結局、イエスへの愛なのですが、それに必要なのが「生きたイエスの物語」だということです。物語とはその者が生きて血を流し、汗をかき、愛し、苦しみ、生き抜いた、その流れのリアルな、まさしくリアルな現実のことです。

このことに関して、上智大学神学部教授の岩島忠彦神父はこう述べています。少し長いですが、引用してみましょう。「従来のイエス像は、神の子としての姿が強調され、その超人間的側面が前面に立てられてきた。→キリスト仮現説とキリスト養子説の歴史。その結果として、神の子の受肉と十字架上での救いの業という、イエスの生の初めと終りのみに注意が集中し、その中間項がすっぽり脱落することになった。(中略) 今日、信仰は頭や理屈の事柄ではなく、何よりもまず、キリストに従って生きることであるということが、ますます意識されてきている。そこにおいてこの中間項が重要であることは、言をまたない。(中略)初めてのイエス伝として、一七七八年、R.H.ライマルス著の『イエスの目的と彼の弟子たちの目的』がレッシングによって出版される。それまでは一般に、福音書の叙述はそのまま歴史的事実のありのままの報告であると見なされていた。聖書学の発展(様式史、伝承史、編集史、構造分析、文学社会学等)二十世紀、それから二〇〇年、人々は、福音書の奥に、信仰のキリストと区別された、ありのままのイエスを知ろうとしてきた。これを「史的イエスの問題」という。イエスの姿をより明確にする試みが、それなりの実を結びつつある。他方、学問的確実性をもって断言できない場合、多くの学者は沈黙する傾向にある。しかし、イエス伝を書くのは不可能であっても、イエスの姿を幾本かの描線で表わすことは可能である」。

ここには岩島神父のキリスト教信仰にイエスへの愛が不可欠であるにもかかわらず、その発露であり、源たるイエスへの愛を醸成させる生きたイエスについての記述が聖書に欠けていることへの、ある種の苛立ちが私には見て取れます。イエスへの愛。それが重要なのに、イエスを愛する記述がすっぽり抜け落ちており、それを補う努力がキリスト教界には必要だと、岩島神父は言いたいのだと思います。

 

参考文献=キリストと恋愛関係にならなければ、彼の善さ・愛らしさにひきつけられなければ、先述したようにキリストを知るのは不可能である。私たちがより深く彼を知るようになれば、それだけ強く彼を愛するようになる。また、より強く彼を愛するならば、より深く彼を知るようになる。というのは、本当に人を知るためには、愛のまなざしでその人を見ることが必須の条件となるからだ。 イエスはこの愛がイエス自身に向けられるように要求した。「何を、どう祈ればいいのか」(女子パウロ会)。

 

小説のリアリティーについて

 

小説を読まなくなってから、ずいぶんになります。自分で書くようになってから、「名作を読むと引きずられる」自分の凡才さかげんにあきれて、ますます読まなくなりました。しかし、読まなくなって、小説の大切さはむしろ骨身に沁みて分かるようになりました。十代から三十代までずっと読んでいたことが今さらながら有り難いことに思えて来ます。小説は言ってみれば擬似人生です。自分の人生でない人生を才能のある達人の筆によって味合わせてくれるわけです。ところで、そこに描かれているのは詳細に満ちた人間の感情の奥行きの深さです。それを事細かい感情描写によって味合わせてくれるわけです。感情というのは人間の身体で言えば細胞に似ていて、その細胞の隅々に亘って、自分には視えない部分まで視せてくれるのが小説家の腕です。この腕によって、私たちは自分でも感知し得ない、実は自分の中の、ということは人間の中の不可知の感情を知ることが出来るわけです。

このことを長年に亘って体験できたことで、私は宗教の在り様を概念だけでなく、形骸だけでなく、血肉のことを分かったような気がしています。つまり、訓練が出来ていたわけです。聖書を読み、その中の言葉の向こうに実は生の人間の血の流れる世界があることを、そのことを言葉だけでなく、概念だけでなく、まるで生理が摘み取るように感じとれる訓練が出来ていたように思います。それは小説のおかげです。

キリスト教の世界はややもすると、実質と離れています。それは西洋による馴染みの薄い言葉が薄葉陽炎のようにフラフラと目の前をさ迷うため、うっかりすると、それを掴み損ねて、分かりかねない時間があっという間に過ぎて、たとえ分かっても、それがリアリティーをもって自分に迫って来る言葉とはなかなか成り得ない懸念が多分にあるため、自分の血肉にするためにずいぶん時間がかかると思います。

また、聖書という一種の西洋言語圏のただ中にいるために、その言葉(概念)の中でのみ思考するという愚を犯しかねない、いや、すでに犯している現実があると思います。聖書の中でのみ思考するということは、それが常にキリストの真理の中にのみ置かれて思考するなら別ですが、人間はそうは行きません。聖書のある箇所を思考するとき、人はその言葉の概念の中でのみ思考しますから、通常の言葉(概念)とは違う、別の概念で思考することになります。それは符号しているようでいて、微妙に違います。また、絶えず聖書の言葉にこだわって、その概念の中で思考しますから、通常日本人が使う、ごくありていの、しかし生きた言葉とは違うため、日本人が現に生きて思考する言葉、つまり概念とは違う怖れを有するのです。

聖書の言葉の中に、或いはキリスト教が使う、特殊な日本社会の通常とは違う言葉が連呼されるただ中に、日本人の生きた血が、肉が注ぎ込まれないかと強く願うのですが、そんな日は来ないのでしょうか?

遠藤周作氏が「私は西洋が形作ったキリスト教をそのまま、何の疑念もなく語る聖職者を信じない」という意味のことを語っています。これは概念たる言葉が西洋の理念を持って我々日本人のクリスチャンに届けられるため、今ひとつ私たち日本人のクリスチャンがリアリティーを持って、土着の、まぎれもなく我々日本人のキリスト教と言えるキリスト教が実は達成されるところであるはずなのに、そのことを実に怠慢に行おうとしない、或いは気づかない日本キリスト教界に対する一見静かな、しかし激しい怒りだと私は思います。